ブッダの生涯を追いかけて Looking for a Life of the BUDDHA

ルンビニーは、インド国境に近いネパールのタライ盆地にあります。乾季には、ヒマラヤが臨めるというが、雨季が近い時期に行ったため、訪れた日も靄がかかっていました。
摩耶夫人は、白象が天上界からブッダを乗せて天上界から下りてきて、摩耶夫人は懐妊し、住まいのあったカピラ城から、お産のため実家に向かう途中、このルンビニーで産気づき、サーラ樹の下で、右脇からブッダを生んだと伝えられます。
ブッダは、誕生と同時に七歩歩み、「天上天下唯我独尊」と宣言した話は、有名ですが、もちろん神格化された後に造られた話です。
生まれたブッダの相を占ったアシタ仙人は、ブッダが偉大な宗教家になると予言し、その教えを受けられないことを悲しんだといいます。
摩耶夫人は、ブッダを産んで7日後に亡くなられたと伝えられます。

私は、インドのクシナガルから、ソナウリの国境を通過し、陸路で入りましたが、入国管理事務所が、ストライキ中。ただし、個人は、OKということで、入れましたが、ひじょうに時間がかかり、街の中も必ずしも安全ではないとのことで、入国した日は、パエルワのホテルで休憩し、翌朝、街が落ち着いてから訪れました。
国境と言っても、ネパール人、インド人は、自由に行き来しており、パスポート、ビザが必要なのは、外国人だけです。
インドサイドと、ネパールサイドに、ブッダの眼をデザインしたゲートはありますが、別に検問のようなものはありません。
ネパールはアライバルビザですが、掘立小屋のような粗末な小屋で、極めてのどかです。スムーズにビザはいただけましたが、乗ってきた車は、そこで、ネパールのナンバープレートをもらう必要があり、そちらは、結構時間がかかりました。ネパール内では、ネパールのプレートをつけて走ります。トラックの方は、まったく動いておらず、ストが終わる午後5時までは、一台も入国できなかったそうです。

国境の町パエルワから20km程度で、ルンビニーに到着です。
ルンビニー園のゲートです。まだ朝早く、訪れ人も少なかったでした。
ゲートをくぐってからも道が続きます。
ルンビニー園に向かう道には、きれいな花々が咲いていました。
きれいな花々。
ずいぶん整備されたそうです。
ちょっとアップで撮ってみました。
ルンビニー園に近づくと、陽が上ってきました。
大きな池があり、白い蓮の花が咲いていました。
回りには、各国の寺院が建てられています。
ルンビニ園の看板。
丹下健三先生が、設計されたそうです。
陽が上って来ました。
摩耶夫人を祀る祠堂です。
昔の写真よりも、ずいぶん綺麗になっていました。
右に見えるのが、アショカ王の石柱で、この石柱が、ここがルンビニーであることの決定的な証拠になりました。
『インド佛蹟巡禮』には、立派になる前のマーヤー堂のカラー写真が掲載されていますが、中心部だけが、お堂になっていたようです。
内部は(今は)撮影禁止でしたが、一枚知らずに撮りました。
建物の土台があり、それを祠堂が覆っています。
この中央付近にブッダが生まれたと言われる足の形をした岩があり、そこが祈りの場になっています。
その横に摩耶夫人がブッダを御産みになったところを描いた古いレリーフがありますが、顔が切り取られています。本によっては、もっとわかりやすいレリーフの写真を載せているものがありますが、私が訪れた時は、ありませんでした。
東南アジア人(タイ)と思われる人がお祈りしていましたが、人も少なく、ゆっくり雰囲気を味わうことができました。
『インド佛蹟巡禮』に、生誕仏のレリーフのカラー写真がありますが、私の見たレリーフとは異なるもので、旧マーヤー堂内にあったものと思われます。
祠堂の周りにも、ストゥーパや、建て物の跡が残されています。
この地には、法顕も、玄奘も訪れており、かつては、宗教センターのような役割も備えていたものを思われます。
かなり規模が大きな遺跡です。
これは、16の仏塔が建てられていた跡です。
祠堂の横には、池があります。
ブッダが初めて使った池を伝えられています。
美しい光景でした。
池の横には、菩提樹が植えられていました。
アショカ王の石柱です。
この石柱は、1896年に発掘され、それまで実在さえ疑われていたブッダが歴史上の人物であることが確認されました。
当時の文字がまだ残されており(マガダ語系のプラークリト語)、ここがルンビニーでブッダが御生まれになったことと、この地の住民は、税を軽減されることが彫られています。
石柱の上にあった像は失われています。
石柱の根元には、石柱の礎石?らしきものも、展示されています。