ラオス

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ラオスは、ASEANの中で、最後に訪れた国になりました。それほど、仕事にも関係なく、旅行の対象でもなく(失礼!この旅行も新聞 ”星日報=Shin Nchihoというシンガポールではちょっと知れた新聞” で見た広告がきっかけで、深い動機はなかったんです)、取り残されてしまったところなのかもしれません。だからこそ、素朴な庶民の生活が数百年も残ってくれているのでしょう。
最近は、乗り入れ航空会社も増え、行きやすくなりましたが、なるべく観光ずれして欲しくないというのは、私だけの願いではないはずです。
バンコック経由で、2泊3日の短い旅でしたが、旅行で見聞きしたことを、そのまま紀行文風にまとめてみたいと思います。

第一日

この旅行は、波乱含みのスタートでした。元々は、この前の日のフライトで行ける予定だったのが、バンコック・エアウェイズのダブルブッキングにより、急遽3泊4日の予定が、入国日が1日遅れて、2泊3日になってしまったのです(おかげでバンコックで半日観光し、ついでに同僚との情報交換までしてしまいましたが)。旅行社によると、このような事件?が発生したのは、過去にマレーシア航空で経験したのみとのことで、あまりないようです(航空会社にとっては、キャンセル待ちにしておけばいい話のはずです。特にこのルートは1日1往復みたいですから。

バンコックのホテルからエアポートに向かいましたが、タクシーの運ちゃんに、ターミナルを聞かれ、旅行社の行程表には、”Domestic" Terminalと明確に書いてあるので、そのまま告げると、タクシーの運転手は、ラオスに行くのにそんなことはないと言いながら、結局”Domestic" Terminalへ到着。飛行場で聞き回ったところやはり”International" Terminalということで、Treminalを移動。旅行会社の単純なミスなのですが、ここまで事前にチェックなんかしませんよね。でもこういうことは、ままありますから、初めて行く所の時は、時間に余裕を持っておくべきです。"Domestic"と"Internationl" のTerminal間は、エアコンがしっかり効いている立派な空中廊下(数百メートルの見事なもの)で繋がれており、タイはがんばっているという実感ができました(動く歩道だったら感服するのですが、流石にそこまでは無理です)。ちなみに帰りに泊まったAmari Hotelというシンガポールではあまり聞いたことのないホテルは、空港と隣接しており、設備も予想以上によく、特に翌朝のフライトの早い人にはお勧めです。

”International" Terminalでチェックインをしたところ思いがけず、バンコック・エアウェイズのラウンジ券をもらったため(クレイマーとして登録されていたのかもしれません)、朝食+飲み物+読み物ということで、どっかで朝食を食べようと思っていたところだけに、ラッキー。ダブルブッキングの件はとりあえず、忘れよう。ラウンジの読み物の中に、バンコック・エアウェイズの旅行パンフがありましたが、シェムリアップ航空と提携して、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアを周遊するツアーを売り出し中のようです。インドシナ半島の遺跡を効率よく見るならお勧めツアーでしょう。かなり気合のはいった立派なパンフでした。
ラウンジ利用のメリットはもうひとつ。だらだら残っていると、トランシーバーを持ったお姉さんがゲートへ追ったててくれるので、乗り遅れの心配がありません。ちなみに私も飛行機に乗った最後のグループ(6人)の1人でした。乗ったら、まだ時間でもないのに、離陸しました(小回りが効く?)

乗ったのは9時10分発(予定)のPG632便でしたが、ミャンマーの時に乗ったのと同じプロペラ機だったと思います(プロペラ機のことはよくわかりません)。ただ、乾季にもかかわらずあいにく雲が厚く、次々と現れる入道雲を巧みによけつつも(やむなく?わざと?)突っ込んでいました。サービスは普通でしたが(=ゼロに近いが一応ジュースと軽食は出る)、欧州人を中心にまさに満席。アジアが観光で結構いけるのではないかと改めて実感しました(ピークシーズンだから?)。日本人はあまり見ませんでしたが、町に行ってからは、お年寄りの団体に1組出会いました。若者もちらちらいましたが、ヨーロッパ(特にフランス)の人が圧倒的に多い。カンボジア、ミャンマーに比べ日本人はかなり少ないです。ちなみに、後からASEANに加盟した4国は、CMLV( Cambodia, Myanmar, Laos & Vietnam )と呼ばれ、区別されています(ベトナムは、中国ブームのおこぼれで、CMLVの中ではがんばってきていますが)。

いよいよ着陸するために高度を下げ始めると、雲の合間から山が見え、川が見え、川岸にへばりついた田んぼが見え、町が見えてきました。橋も見えましたが、この橋は、空港から町に行く時に渡る橋で、対抗車とゆずり合いながら渡る、懐かしいタイプの橋でした(タイヤの通る部分だけ、板が敷いてある)。機長が、今日は、天気が悪く、飛行場は山に囲まれているので、着陸が難しいとかぶつぶつ言っていましたが、無事着陸。確かに山間(やまあい)の町でした。

今回訪れたルアン・パバーンは、かつてのラオスの首都で、”大きな仏像”を意味します。14世紀にファーグム王が、ランサーン王国の首都と定めました。8世紀頃からラオ族がこの辺を中心に暮らしていたようですが、その頃前の記録はほとんどないようです。カンボジアに近いところは、クメールの影響が見られるようです。その後、ベトナムが攻めてきた時、タイが援軍を送ってくれたため、タイと一時一体化し、チェンマイの王女をお嫁さんにもらっていたくらいとのこと。その後も、ベトナム、ビルマ、タイとの攻防を繰り返す中で、いったん今の首都であるビエンチャンに遷都されましたが、ルアン・パバーンに宮廷は残り、18世紀のラオス分裂で、ルアン・パバーン王国の首都に再びなりました。その後、タイの属国になったり、中国に攻められたり、フランスの植民地になったり、日本の侵略を受けたり、ラオスの歴史は、翻弄され続けたわけですが、王朝は、1975年の革命まで続きました。今は、人口5万人くらいの小さな町ですが(ラオス第2の町らしい)、数十の寺が連なり、ユネスコ世界遺産にも指定されるほど美しい町となっています(開発が規制され、きれいな町並みが残っているのでしょう。謝謝)。

空港に着くとUS30ドルで、ビザを発給してもらいますが、プノンペンの時ほど人数は多くなかったため、落ち着いた雰囲気の中で、のんびりビザをもらいました。事前に貰っていた人も多かったようです。スタートから、とにかくのんびりムードです。

大名旅行 ( Guided Tour ) ですから、ちゃんと空港にガイドと運転手がお出迎え。実は、今回日本語ガイドを申し込んだのですが、"Sold Out!” ”Peak Season!” ということで、英語ガイドになったのでした。費用は節約できましたが、ガイドの発音はラオス英語でわかりにくい(日本人が、日本国内で、日本の先生に英語を習うのと同じです)。まずはガイドと世間話ですが、大家族(7人兄弟くらいだったと記憶するが、ガイドのお兄さんはその家族の1番若い方。親は語学の教師とのこと)で、このルアン・パバーンでは名家の模様。日本人ガイドはルアン・パバーンに10人程度しかいないらしい(彼の旅行社には2人。ちなみに彼の会社は"Exotissinio Travel Laos Co. Ltd." という名で、総勢10人もいないらしい)。ルアン・パバーンには、大学はないが、高校まではある。一生懸命で好感がもてる青年で、ラオスのためにがんばってほしい。ちなみに彼の名前は、ソンペット君。『サバディ』="こんにちは"と、『コプチャイライライ』="どうもありがとう"の2つだけ、ラオスの言葉も教わりました。

車で、町に入っても、ずうっと田舎くさい。途中では、小さい頃見た、道路をほっくり返して舗装したりする様子が、そこかしこで見れました(中国人労働者が多いそうです。ラオス>中国?中国の貧富の差を象徴するような話です)。ここも近代化への道を不幸にも?たどっているのでしょう。ホテルは町から4キロ西にはずれたところにあって、ますます田舎。ちなみにこのホテル"グランド・ルアン・パバーン"も、旅行社が、予定のところがとれなくて、かってに決めたところで、ガイドブックにも載っていなかった。ガイドに聞いたところ2年ほど前にできたとのこと。心配していたが、着いてびっくり。ロビーはコロニアル風の高い天井。建物は2階建てが数棟で、広々としており、庭もきれいで、いろんな木(この辺は竹も生えるらしい)が植えてある。蓮と鯉が同居する池が、そこかしこに張り巡らされている。部屋もシンプルでかつセンスがよく、天井には、アジアらしく、ファンがついている(涼しくて、ファンも冷房も今回は不要だったが)。レストランは、メニューに限界はあるものの(注文した品が品切れのケースあり。最終日に同じメニューを注文したら、今日はOK!と言っておきながら、また品切れであった。流石である)、メコン川が見下ろせる絶好のポジションにある。夜は、虫の声以外まったく音のない世界。各部屋に庭を見下ろす、バルコニーもあります ( Nice! )。泊まった日が曇りで星が見られなかったのが唯一の心残り。トゥク・トゥク(当地の3輪タクシー)に乗るのが苦でなけらば、またUS100ドル近い部屋代が気にならなければ、お勧めのホテルです。

着いたら、2時まで昼食+休憩。ついたとたんに、いきなりすっかりリラックスしてしまいました。部屋の資料を見ると、地元名は、"Xiengkeo Hotel & Resoert"といい、元は、Phetsarathという首相にもなった王子(鉄人=Iron Manと書いてある)の私邸だったらしい(ということは、社会主義化により、民間に開放されたということか)。部屋から電話をかけたら、海外は1分US5ドルちょっと。ただし、最低3分なので、US15ドルがミニマムということになります(1秒でも)。当地の物価で見ればとんでもない値段ですが、よく考えてみると30年前の日本もこうでした。

2時から市内視察?開始。まずは、金がなくては始まらない。町の両替屋で、両替しました。Kipという見たことも聞いたこともない通貨ですが、1ドル10,570Kip(初日)、10,590Kip(2日目)と極めてリーズナブルかつわかりやすい価格(ベトナムの場合、1ドル15,000ドン強なので、一瞬計算時間が必要)。ちなみにこの20Kip差は、小額の両替の場合、もらうKipの金額に影響を与えません。500Kip札(硬貨はない=これもCMLV共通 )もありましたが、通常1000Kipが最低取引単位のようでした(つまり12円が一単位でかつ一単位でかなりのものが買えるというおおざっぱな世界)。ちなみにトゥク・トゥクに乗ると町の中は、大体10,000Kip(もちろんメーターなどないので、その場の交渉次第)。円タくならぬドルタクといったところでしょうか(ただこれも観光客料金なのでしょう)。

まず訪れたのは王宮博物館(旧王宮)。王室はパテトラオによる1975年の社会主義化までは、ここで暮らしていたのですが、社会主義になった時、国の北の方に追放されました。今は、戻ってビジネスをやっている子孫もいるとのことですが、基本的には消息不明ということになっているらしい(あまり詰めてはいけないのか?)。カンボジアとはちょっと違います(カンボジアはご存知のように王様が堂々と復帰しています)。1909年に当時の王シーサワンとその家族の住居として、建立されたとのことですが、当時は、すでにフランス領であったため、王政は形式的なものであったようです。建物も、ラオス風というよりは、フランス風です。

王宮博物館には、かつての王や妃の接見部屋、鮮やかな壁画、様々な仏像、銅鼓(ベトナムでもありました。クメール系?蛙が3匹建てに重なっている(親蛙の上に子蛙、子蛙の上に孫蛙、日本の亀はパクリか)飾りがついています、雨乞いに使われたそうです)、昔の楽器、王室への様々な献上物など、いろいろ展示されていて、見る人を飽きさせません。特に入り口のすぐ右の鉄格子の部屋にある、黄金の仏像は有名です(セイロン伝来と伝えられているが、コピーという噂もあり、本当はどの程度のものかは不明)。この部屋には、その他にも、いろいろ由緒ありそうなものがたくさん置いてあります。王やその家族の寝室は広すぎて、殺風景な感じがしましたが。床が木なのはいいですね。
ソビエトの画家が描いた大きな肖像画がありましたが、どの方向から見ても顔がこちらを向いている(または靴=つま先がこちらを向いている)不思議な絵でした。ちなみにこの王宮博物館内部のみ撮影禁止です(入口に持ち物を入れるロッカーがあります、その他の寺院で撮影禁止のとこはなかったと思います。おおらかです)。

王宮の手前右側には、修復中の立派なお堂があり、将来先ほどの黄金仏が納められるとのこと。左側には、シーサワンウォン王の像と奥にホールが見えます。ラーマーヤナのショーが週4回催されるとのことですが、夜のマーケットに気をとられ、見損ないました。ラーマーヤナという物語りは、東南アジアのいろんなところに伝えられていますが、宗教を超えた一大文化ということなのでしょう。アジアの文化は、すべてインドからということか。でもインドと東南アジアにこれほど違いがあるのは何故?民族?言葉?不思議です。
王宮博物館の正面には、3頭の象の紋章が掲げられていますが、これは、18世紀に、王位争いから、ヴィエンチャン、ルアン・パバーン、チャンパサックに分裂した時のラオス3国を表したものとのことです。ラオスという名は、その時、呼ばれるようになったラオの複数形なんですね(これを知っているだけでラオス通?)。ちなみにラオとは、ラオスの国民の主流派であるタイ語族(約60%)の中で、一番メジャーなラーオ族の名から来ているのですね(これも知っていれば、ラオスのプロ?)。そういえば、ガイドのお兄さんは、ラーオ族を、住んでいる場所、(高い、低い)で分けていました。とにかくこの少ない人口(5百万人くらい)なのに、やたらに部族が多い国(100以上)なんです。

次に行ったのが、ワット・ビスンナラート(ワット・ビスン)。ちょっと町のメインストリートからはいった所にあります。1513年に当時の王ビスンナラートにより建立されましたが、雲南のホー族の侵入で破壊され、今の建物は19世紀末に建て替えられたものとのことでした。お堂の外には、幟(のぼり)みたいなものが立っていますが、亡くなった人を弔うためのものとのこと。幟のてっぺんに魚がついていますが、魚が巧みに、亡くなった人を極楽に導いてくれるのだそうです。確かに魚がものにぶつかって怪我をしたという話は聞いたことがありません(水族館のマンボウはよくガラスにぶつかるため、ビニールで保護されています)。そういえば、ラオスは小乗仏教(Small Vehicleというらしい)の国ですが、逆に肉を食べること ( Kill Animal ) はOKのようです(タバコも!)。日本は大乗仏教の国ですから、菜食(ヴェジタリアン)ですよねとガイドのお兄さんは言っていましたが、違いますよね(あまりその辺はわかりません)。ラオスという国は、山間(やまあい)の何にもないところなのに、シャム(タイ)、カンボジア(クメール)、中国(雲南地方、元、明)、ベトナム(チャンパ)、ビルマなどに囲まれてたいへんだったんだろうなと思わせます。この塔も、本堂の仏様も立派なものです。ちなみに塔の形がスイカのようであることから、Watermelon Stupa(スイカ寺)としても親しまれています。

そのすく隣にある寺院 ”ワット・アハーム” (確かそうだったと思うのですが。ただ敷地はいっしょだったようなので、よくわからない)のお堂には、仏像とともに、ルアン・パバーンの町の様子や、仏の教え(五戒)が壁一面に描かれており、そのリアルな描きように思わず、自分自身を振り返ってしまいます。これを描いた人は、よっぽど人生経験豊富なのでしょう。寺から出たところで、隣にある小学校の生徒の下校風景に出会いましたが、ほかの東南アジア地区と同様、生き生きと学び、生活実感が感じられ、うれしくなりました。日本の子供にも、学ぶことのありがたさ、生きることのたいへんさをもっと知ってもらいたいです(いつも子どもに言っているのですが、無視され続けている)。

初日の寺院めぐりの最後は、ルアン・パバーンの一番の名刹ワット・シェントーンです。ルアン・パバーンの象徴的存在です。1560年、当時の王セタティラートによって建立されたとのことですが、ラオスの寺院の中で最高の美しさを誇るといわれています。ここはちょうどメコン川とその支流のカーン川の合流地点の岬の先のような場所に立っており(町の北東の端)、翌日のメコン川ツアーでは、ここが上陸地点でした。

まずちらっとドラゴンボートレース用のボートを2艘見ました。このレースは娯楽の少ない当地では、きわめて重要な意義を持つようです(他のアジアでも同じ?)。祭りとしてか、宗教としてか、スポーツとしてか?どうもこのボートも、元々王室の御座舟で、由緒あるもののようです。

いよいよ本堂ですが、外から見てまず目につくのが、裏壁の大きな木のモザイクです。マイトーン(黄金の木)と呼ばれ、ここに立っていたと伝えられる高さ160メートルの機がモチーフになっているとのことです。仏教説話に基づくモザイクも描かれています(トラに命乞いをする話なのですが、日本では聞いたことがありません)。
屋根には、金色の槍のような(Stupa?)ものが立っていますが最高が17本で、10本以上(忘れた)が王家の寄進による寺院で、それ以下が一般民の寄進による寺院とのことです。屋根が幾重にも重なっており、独特の優雅さをかもし出します。屋根の先には、ラーイラーオ(ラオスのデザインの意)の飾りがアクセントをつけていますが、そのデザインは、竜からとっているのでしょうか。
本堂の中には、大きな仏像と周りに大小様々な仏像が納められています。仏立像には、両手を下におろした姿のものが多いですが、ラオス独特の雨乞いのポーズらしいです。傍らに、近時亡くなった高僧の写真と像が祀られています。壁の装飾もすばらしく、落ち着いた雰囲気です。天井にも、様々な文様が描かれています。ひとつ難を言えば、天井にぶら下がっているファンでしょう。いつ使われるのかわかりませんが、全体の調和を乱しているようにしか思えないし、天井の模様の真ん中に大胆に穴を開けてぶらさげてあります。

本堂の後ろには、2つの小さな祠があり両方ともなぜかピンク色が基調です。その内のひとつは、レッドチャペルとよばれ、涅槃仏が納められています。この仏様は、1569年にセタティラート王により、納められたもので、本尊より有名らしい。1931年にパリで行われた国際植民地博覧会(時代ですね、特にイギリスとフランスの植民地政策の違いには考えさせられるところ大です。イギリスの植民地では(シンガポールでも、スタンフォード・ラッフルズは建国者扱いです)、イギリス人のことを悪く言いませんが、フランスの植民地はまったく逆です(ハノイの、ハノイヒルトンともあだ名を付けられた、ホアロー収容所跡を見ればよくわかります)にも展示されたという、小さいですが由緒あるもの。外壁の装飾は、ピンク地に庶民の生活がモザイクで描かれていますが、1957年の仏陀生誕2500年記念に造られました。

本堂をはさんだ反対側に、金ピカのお堂(ホー・ラーサ・ロット)がありますが、ここには、1959年に亡くなった、シーサワンウォン王の葬儀に使われた霊柩車が納められています。霊柩車といってもその装飾は、見事なもので、キングギトラを彷彿させる七頭の竜の頭がその先頭を飾ります。お堂の内装も見事ですが、まだ未完とのこと。棺は縦型で、この辺のどこかで見た(ミャンマー?)気がします。ただ、なぜ霊柩車を納めるためにこんな立派なお堂を作ったのか不明です。かつ、入り口が小さくて、霊柩車は永久に外に出られないのです(山椒魚か?)。

ワット・シェントーンを見終わってから、たらたら西へ歩くと、すぐ町の真ん中に戻ります。ここで一服。地ビールのビアラオ(Beer Lao)を飲みましたが、なかなかの味です。アジアで、いろいろビールを飲んでみましたが、かつてはずれはなく、植民地時代のアルコールにかける支配者達の情熱を感じざるを得ません(ただし、ワインは要注意、相当いい加減です)。

エネルギーが復活したところで、王宮博物館向かいにあるプーシー山に登ります。登るといっても、高さ150メートルの小山(海抜700メートル)です。階段328段(KLのバトゥ洞窟よりも高い!)ですが、途中見るものもあり、階段も適当に曲がったりしてアクセントもあるので、そんなにしんどくはありません(単に夕方で涼しかったせいか!)。上に登ると、まさに町を一望にできます。特に、王宮博物館は、真下に見下ろせ、その奥にメコン川を望む景色はなかなかのものです。裏に回ると、対空放射砲の跡が残っており(今や場違い)、その先には、飛行場が見えます。数年前までは、この方向は撮影禁止だったとか。
頂上には、タート・チェムシーという寺院があり、その塔も高さが24メートルありちょっとしたものです。1804年にアヌルット王が建立したとのこと。山を下から見上げても、この塔は見えます。ちょうど、僧が太鼓を鳴らす時間に当たったので、見ていましたが、シンバルのような楽器の音と、太鼓の音が交錯するあまり芸術性の高くない(=低い)音楽でした(うまくはありません。時々、音を出しそこなったり、リズムが狂います。もっと修行せい!)。でも、ここで、お坊さんがやっていると、もっともらしく聞こえます。

本来は、プーシー山で、日没を見てから下りるのがパターンなのですが、曇りのためそそくさと下におりました(アジアでは、イラワジ川でも、バリでも夕陽は見逃したなぁ。ジャマイカの夕陽はダイナミックだったなぁ。みんな踊っていたなぁ。昔の話ですが)。山から下りるとびっくり。町唯一の目抜き通り(メインストリート)だったところが百メートルくらい、大胆にも?車両通行止めになっており、一面屋台、土産物屋になっています。日中は、引っ込んだところで営業している店が、この時間になるとメインストリートの真ん中に突如現れる歩行者天国で、営業を開始するようです。観光客と地元の人たちが、渾然一体となった、不思議な盛り上がりを見せます。売っている人もいろんなところから来ているらしく、衣装、年齢等ばらばらです。英語を、しゃべれる人はほとんどなく、電卓での交渉になりますが、最初の提示価格の3-4割引きが大体落ち着きどころのようです。と言っても安いものしか売っていないので、大した意味はなく、ラオスの人との交流を楽しむ場所といってもいいかもしれません。インターナショナルな夏祭りというところでしょうか。某インドネシアのようなしつこさはまったくなく、交渉成立しても、しなくても構わないというおおらかさがこの交渉の中にも表れます。

行程表によると夕食は”バーシー”でとなっています。何やらわからないまま真っ暗な田んぼの中にある民家に連れて行かれました。その民家(比較的近代的)には、すでにフランス人の家族が2組おり、当方の到着で、予定の人が集まったようです。地元の人も老若男女10人くらいおり、部屋の中央には、不思議なものが飾られています。これは、”バーシー膳”と呼ばれるものだそうで、バナナの葉で作られており(そういえばバリのお供えものも、バナナの葉のお膳にのっていたっけ)、花や木綿の糸を巻いた棒がたくさん立っています。まずは、ラオラーオというもち米から作った強ーいお酒を勧められます(ただしテキーラの一気飲みによく使われる小さなコップなので、大丈夫です)。つがれたら全部飲み干すのが礼儀のようです。やっぱり強いです。
一通り落ち着くと、徐(おもむろ)に祈祷師がろうそくに火をつけ、祈祷をはじめます。この祈祷師のみ、もと僧侶のプロのようです(他は普通のラオスの人)。その間、その他の人は(ホスト+ゲスト)、お膳を両手で持ちます(こっくりさんか!)。この儀式は、いろんなお祝い事がある時に行われるもので、祈祷によって、ご先祖様が降りてくるという意味があるようです(お盆か!)。一言もわからないお祈りが終わると(ラオス語でもなく、地元の人もわからないとのこと。多分こちらの僧侶が学ぶサンスクリットか、パーリ語なのでしょう)、ホスト(地元の人)が、用途のわからなかった木綿の紐を巻いた棒を抜いて、巻いてあった木綿の紐をホスト一人一人が、ゲスト一人一人の手首に順々に結んでいきます。その時、手のひらを紐でなでるなどしながら、さまざまな言葉(フランス語、英語、ラオス語、不明語、呪文?)で、幸せのための祈りをささげます。片手づつ行いますが、空いている一方の手は、頬の横で立ててお祈りをします。結局10本くらいづつ(=ホストの人数、地元の人の祝い事の時は、=参加者の人数))紐が両手首に巻かれたところで、最後に、また全員でお膳を持ってお祈りをし、儀式は完了しました。この手首に巻かれた紐は、3日間は解いてはいけないそうです。旅行者の場合、旅行が終わるまで、旅の安全を祈るために解いては、いけないそうなのですが、その割には、町でこの紐をしている人は、あまり見かけませんでした(信心深い人がいかに少ないことか)。日がたつと、心なしか、蒸れる感じもします(何せ、10本ずつですから)。各人にバーシー膳のミニチュアのようなもの(すしの巻物よう)が配られ、お膳にのっていたデザートみたいなもの(モンキーバナナ、カリントウのようなお菓子等)が振舞われ、いよいよ夕食です。

夕食は、きゅうりスープや、薄めのポークカレーやら、野菜いためみたいのやら、思ったよりさっぱり系の、日本人の舌にはフィットするものでした。ただし、フランス人の女の子の舌にはあわなかったようで、ご飯しか食べていませんでした。ご飯は、普通のともち米(カオニャオと呼ばれている)のと2種類よそってくれますが、もち米のものは、指で適当な大きさに丸めて、好きなものに適当に浸して食べます(すべて適当ですが、地元の人は、朝、昼、晩食べているらしい)。これまたシンプルながら、かなりおいしいです。地元の人は、部屋の片隅で、ちがったメニューの夕食(青物中心)をとっていました。部屋をよく見ると、どこから採ってきたのか、土産物屋で売っていたアンティークがたくさんおいてあります。この辺ではあたり前なんでしょう(ちなみに仏像の国外持ち出しは厳禁だとガイドのお兄さんは言っていました)。
あとから、聞いて見ると、この家族は、ガイドのお兄さんの実家で、はしゃいでいた子供は甥っこで、フランス語(+片言の英語)も話すエネルギッシュな若者はお兄さんで、すみっこで、にこやかにじっとすわっていた老女は、お母さんだったんですね。

そうこうしている内に、夜もふけ、第一日が終了しました。

第二日

今日は、メコン川クルーズです。ホテルの朝食のバッフェを霧のメコン川を見下ろしながら、いただきました。夜は、かなり温度が下がり(多分17-8度)で、シンガポールでは味わえない快適な目覚めでした。昨日着く前に降った雨のせいか、温度が下がり湿度があがっていたせいか、霧が立ち込め幻想的な眺めです。

昨日行った王宮博物館から川の方にくだった所に船着場があります。船着き場と言っても、雨季と乾季では、10メートルも水深が違う世界ですから、川に下りていく階段があるだけで、その時の川面の位置が船着場ということなのでしょう。今は、乾季なので、階段が途切れたあと、砂地をとぼとぼ降りてやっと船のあるところにたどりつきます。船は、細長い横2人、縦10人くらいすわれるものですが、貸し切りでした。横波には弱そうである。船に乗る時は、幅30センチ、長さ2メートルくらいの棒切れ1枚立てかけて、そこからこわごわ乗ります(手すりも何もありませんが、失敗しても、深さ30センチの川に落ちるだけです)。船頭は、精悍な若者で、なかなか頼りになりそう(”まんてん”の屋久島のお兄さん風。ちなみに海外ではNHKの衛星が唯一の日本語放送のところが多く、日本では、見もしなかった朝の連ドラが結構話題になるので、キャッチャプをしておくことが必要)。後ろに女性が乗っていましたが、その役割等は不明。船頭の奥さんで家にいてもやることがないからついてきただけなのかもしれません(それともバックミラー代わりか)。

いよいよ出発しますと、まだ風が相当冷たく、救命用ベストを防寒具代わりに体に巻きつけていました。めざすパークウー洞窟はメコン川を2時間ほど上ったところにあるのですが、スピードは程よく快適です。
メコン川を上流に遡るといっても、地獄の黙示録のような不気味なイメージは微塵もありません。地獄の黙示録は、ウィラード大尉が、ベトナムからカンボジアに入ったところに帝国を築いた気の狂ったとされる(最終的にはどっち(国?)が気が狂っていたのかわからなくなります)カーツ大佐を、メコン川を遡り、抹殺に行く話です。ベトナム戦争直後に作られたコッポラの大作ですが、単純な戦争映画ではなく、何が正義なのか、何が悪なのか(完全版の方には、フランス人の植民地支配者も出てきます)、哲学的な奥の深い、言い様によっては、難解な話です(見る人によって、ばらばらの解釈、感想を持つでしょう)。ちなみに、私は、立花隆の『解読「地獄の黙示録」』に触発されて、オリジナル版と、完全版と両方DVDを持っていますが、どちらが良いとはなかなか言えませんね。オリジナル版を見て、完全版を見て、解読書を読むのが、一番知的好奇心をヒットする方法かもしれません。

メコン川沿いに村が見えますが、国道13号線に沿って、点在しているようです。国道13号線と言えば、ちょうど旅行前に、TIMEでバス強盗が出て多数の死者が出たという記事を見たばかりでした(こんな所で襲われたら一たまりもないでしょう)。ビエンチャンから、バスで入る人は、追いはぎに注意しましょう。道の名前(13号)も、はまりすぎているので、変えたほうがいい?川岸には、豆、にんにく、ホップなどの畑がありますが、乾季のみの畑で、雨季にはみな川底になってしまいます。しばらく行くと検問小屋があり、船頭のお兄さんは、何も止める場所がない中、わざわざ船を止めて、棒で川底と突付きながら川岸に近づき、川をじゃぶじゃぶ歩いて上陸し、船の通行登録をしていました。その小屋は職員2人が雨を避けられる程度のもので、水深により適当に上下に移動するのだそうです(笑ってしまいます)。帰りに見たら、誰もおらず、小屋もたたまれていました(何の意味があったのか、ますます笑ってしまいます)。ただし、夜は危ないので、船は行き来しないそうです(確かに危ないです)。ラオスでは、もともと麻の栽培習慣があり(モン族。フランス人がそう仕向けた?)、タイ、ミャンマー(旧名ビルマ)との国境付近は、黄金の三角地帯と呼ばれていました。今はどうなっているか知りませんが、悪いことは、できないぞという警告の一種なのかもしれません。

船の舳先(へさき)には皆ラオスの旗が掲げられていて、船の国籍がわかるようにしてあるようです。わが船には、旗と花が誇らしげに飾られていました(花は仏教関係か?でもあまり似合いません)。川にはところどころ、転がってきた岩石が重なって島(雨季には、川底の浅いところ)になっているところがあり、船がぶつからないようセメントで目印が立てられていますが、逆にそのセメントの目印に船が引っかかって壊れているものもあり、この目印が見えるか見えないかの微妙な水深の時は、かえって危ないのではと思わせます。我が船頭は、知りつくしている様子で、心配無用かもしれませんが。確かに船頭の動きを見ていると、川底を鋭い目つきでしょっちゅう確認しながら、また後ろをきょろきょろ見ながら(なぜバックミラーをつけないのだろう、女性の方を見ていただけか?)意味なく?岸に近づいたり、川の中央に近づいたりしてプロっぽい動きをしています。ただ、大きめの船が後ろからずっとついてきたりしていた時もあり、結構腕は確かだったのかもしれません。大きめの船に追い抜かれたりもしましたが、タイに、船で行き来する人たちとのこと(出稼ぎや、物売り)。乗っている人たちの表情は、これから仕事だという緊張感があったような気もします(同時にこちらを物珍しげに見てもいましたが)。いずれにしてもタイへは1泊2日の旅だそうですから、たいへんな旅であることには間違いありません。もっと大きな船(2階建て)にも出会いましたが、ヨーロッパ人を乗せたメコン川クルーズ船とのこと。値段も1,000ドル近くするそうで、金と時間がある人はいいなぁというところです(ただ底がつかえないかと心配してしまいます)。
途中にできたての刑務所もありました。ガイドのお兄さんに、昨日はルアン・パバーンには犯罪者はいないと言っていたではないかと文句をつけると、過失事故や若気の至りというものはあると真顔で答えていました。確かにこの程度の規模では、少人数しか収容できないでしょう。昔の王様の別荘兼寺院もありましたが、今は、誰も管理しておらず、荒れ放題です。

パークウー洞窟につく前に、バーン・サーンハイという酒造りの村に寄ります。ラオラーオという昨日飲んだアルコール度50度のお酒から、ロゼのような色をした15度位の無難なフルーティなお酒を造っています(バナナを使うらしい)。製法は、いたって簡単。もち米を壷に寝かせ発酵したら、煮立った釜に流しこんで、そこから蒸留したものをビンに入れればできあがり(少し、簡略化しすぎ)。この村には、酒造りをしている家がたくさんある他に、土産物屋(中には、ほとんどママゴトのようなのもありますが)が150件くらい並んでいます。並んでいると言っても道は、山の奥の方に曲がりくねって伸びており、土産物を見ながら、人々と家畜(鳥、山羊、牛)の生活が一体化した様子を見ることができて、ユニークです。土産物は、あまり時間をかけて見なかったのですが、この日の夕方、町でチェックしたところ、こちらの方が掘り出し物があり、値段も安いということのようでした。かつては、壷造りも盛んだったとのことで、壷焼き釜も見せてもらいましたが、たいしたことはありません。

バーン・サーンハイ村から少し上流に行くと、パークウー洞窟です。近くに来ると、川岸の山の形が、ぎざぎざになってきます。これは、石灰質を多く含むためにできる地形で、ハロン湾や、プーケットのパンガー湾(見たことありませんが、たぶん桂林も)と同じ造りです。このような環境でできた洞窟の中に仏像がたくさん納められているのが、パークウー洞窟です。洞窟は2箇所あって、下の洞窟をタムティン、上の洞窟をタム・プンと呼んでいます。下の洞窟は、船を着けたところから上がってすぐですが、無数(数千とのこと)の仏像が並んでいます。ただし、かつては、数万あったそうで、特に金目の物は混乱期に持ち去られてしまっていて、残っているのは木造中心。痛みも激しいです。ただ、よくもこんな所に、こんなたくさんの仏像を納め、お祈りをしていたものだと感心せざるをえません。昔から瞑想の場所だったが、16世紀にセタティラート王により仏像が納められ始めたらしい。ホー族襲来の時は、町から仏像を避難したということもあったようである。エンジンつきのボートもなかったですから、ここに来るだけでずいぶん大変だったでしょう。

上の洞窟は、10分くらい登ったところにありますが、洞窟の奥が深く、懐中電灯(貸し出し料1,000Kip)がないと、歩けません。また、外の景色も見えないし、仏像の数も下に比べて少なく、いまいちです。私が幼少時代を過ごした鎌倉には、鎌倉時代(大体お墓)と戦時中(大体防空壕)に作られたこんな洞穴がたくさんありました。

パークウー洞窟は、メコン川と支流のウー川の合流地点にありますが、ウー川にちょっとはいった所に、ランチの場所がありました。場所といっても、ウー川を見下ろす山の斜面に、木の柱(高さ5〜6メートル位)の上に渡した床にテーブルが並べてあるという極めて簡素かつ合理的なものです。このレストラン以外周りには何もありません。船もまったく通りません。要するに裏の村と、レストラン関係者しか人はいません。幅は広いが、渓谷になっており、景色は最高です。川底が浅いため、船をつける場所もなかなか難しいようで、さすがの船頭も船底がつかえ、ここでは船から下りて、船を押していました。料理は、すばらしい環境の元、シンプルながらすごくおいしい。地元の人が横で作ったものをすぐ持って来てくれますし、ビールなどもちゃんと冷やしておいてあります。豪華なサービス付ピクニックというところでしょうか。贅沢です。ここにも2件土産物屋があり、子供が遊びながら、店番をしていますが、値段交渉は、しっかりしており、これ以上はまけてはいけない値段を親から叩き込まれているようです。親の言うことをちゃんと聞いて立派です。

ランチが終わると、ルアン・バハーンに戻ります。帰りは下りなので1時間ちょっとで着きます。町の東北端のワット・シェントーンの下でおりました。一面水びたしで、運転手に聞くとすごい雨が降ったそうです。

ここから、今度は、クアンシーの滝に向かって、陸路メコン川下流(=南)の方に向かいます(クアンは鹿の意、シーは近くの川の名らしい)。30キロくらいとのことです。町が途切れるとすぐ山道になります。道は予想よりしっかりしていましたが、Up & Downは相当きついです。その中、小・中学生が自転車で列をなして下校する姿は、結構感動ものでした。女の子は、おまけに日焼け防止にかさを片手にらくらくと運転しています。体力も根性もつきます。ただ、雨季はどうするんだろうとちょっと心配してしまいます。小さな橋が多くあり、鉄板を渡したシンプルなものではありますが、あまり危険は感じません。やはり道沿いに村が点在しますが、広々と開けたところはほとんどありませんでした。滝に近づいたところにやや開けた大きめの村がありましたが、一面のもち米の田んぼで、子供たちが、楽しそうに行進していました(遊びから帰ってきたところ)。これも日本では忘れかけている風景ですね。村には、立派なお寺もあるし、仏様の教えのもと、まっすぐな、純粋な子供に育ってくれるといいです。

いよいよクアンシーの滝に到着しましたら、ガイドのお兄さんが気をきかせ、VIP用の門を開け、特別滝の近くまで、車で行けました。おかげで、車から降りたら、いきなり滝の音が聞こえます。小走りに行ってみると、高さ100メートルくらいの、大きく2本に分かれて流れ落ちる滝が見えました。滝壷のところは、青白く、石灰分を多く含んでいるようです。ただ、イメージと違うようなので、ガイドのお兄さんに聞いてみると、滝の下の方が崩れて、水がストンと落ちるようになってしまい、景観が変わり、滝壷も、落ちた岩や、木で、埋まってしまったとのことです。言われてみるとそのとおりです。でも、下からじっと、ぼんやり眺め続けている人もいましたし(単に人を待っていただけか?)、自然に囲まれた心休まるところであることには変わりありません。

滝の断崖の上の方に、人が見えたので、登れるだろうと聞くと、一旦滝壷の向こうに行ってから登るようです。ガイドのお兄さんの反応を見ると、ここで滝に登ろうと言い出す人は少ないようです。途中まで、登ってみたら、一方の滝を裸足で渡らなければならないところがあり、結局そこでやめてしまいました。先に行った人の話によると、やはりかなりすべりやすいとのことです(手すりはありますから、大丈夫です。濡れるのは、転ばなければ、膝から下だけです)。滝を見下ろすとほぼ直角。ただ、そこからまた数十メートル上に水着を着た欧米人がばたばた水浴びをしているとのこと。再び下へおりて、よく見ると、確かに先ほど人が見えたところのさらに上に、水着を着た人が見え隠れしています。欧米の若者は本当にとことん楽しみますね。しかし、怖くないのだろうか。ガイドのお兄さんに聞くと、ここから数泊で、民家を泊まり歩くトレッキングツアーがあるそうです。

滝からは、たらたら滝への登り口まで歩いて降りました。途中に土産物の屋台?が並んでおり、昨日身につけた値切り交渉術を駆使して、竹製ポータブル米びつと釣り用の魚かごのミニュチュアをリーズナブルな値段で買いました。魚かごは、魚が一度入ったら出にくい構造になっており、来客が幸せを家に持ってきて、それを逃がさないようにという意味で、地元の人は、家の入り口近くに飾っているのだそうです。
ここには、もうひとつ見ものがあります。数年前につかまったトラが、檻の中で、うろうろして、見せものになっています。こんな近くで虎を見る機会もそうないですが、実際マン・ツー・トラで見てみるとかなりの迫力です(相当大きいトラです)。さすがに襲われたら一たまりもないでしょう。ただ、こうなってしまうとちょっとかわいそうです。絶滅危惧種ですから、動物園に送って、2世誕生に期待をかけてあげたほうがいいと思います。トラを見るためにここまで来る人はいないでしょうから。

帰りは夕方になりましたが、川で水浴をしている人を多く見かけました。お風呂は当然ないのでしょう。夕食前に体を清めるようです。夕食の準備をする煙がそこかしこで上がっています。農耕用の水牛の群れにも出会いましたが、シャッターチャンスは逃しました。牛のウシロ(駄洒落)姿はとりました。バイクが故障している一人旅のフランス人を助けてあげましたが、ガソリンタンクとエンジンをつなぐ管が抜かれていたようです。ガイドのお兄さんがよくあるいたずらだと笑っていましたが(高校時代よく悪戯した(された?)とのこと)。そのフランス人は陽気に『コプチャイライライ(どうもありがとう)』と手を振って去っていきました(ナイス!)。ちなみにバイクは、中国製が急増中だが、故障が多く不評とのこと。どこの国でも同じですが、特にラオスくらいの最貧国になると日本製と中国製のどちらにするかハムレット並に悩みは深い?

帰りは、昨日中途半端に見た市場でおろしてもらい、ここで食事後、トゥク・トゥクでホテルに帰ることにしました。ラオス語のホテル名を、紙に書いておいてもらったのですが、三種の神器のごとく効果覿面でした(英語の普及率は日本並?に低い)。

まずは、市場のちょっと西側にある、アンティークショップ街(といっても商売っ気のない店が4〜5件並んでいるだけ)に行ってみました。英語がまったくだめの店もあり、まず売っているものが何かを知るだけでも一苦労。1軒、英語をわかる人がいる店を見つけ、ここぞとばかり、情報収集に励む。バーン・サーンハイで買った仏領インドチャイナ時代のコインは、町では、値段が倍くらいするらしい。帰ってインターネットで調べるとその町の値段のさらに4倍くらいすることがわかった。ちなみに本物かどうかの確認を求めると、いきなり硬貨を床に落とし、そのはねる音で判断するというプロらしい、しかし荒っぽい技を披露し、本物であることを保証してくれた(何の役にも立たないが)。それから昨日入手した、アジア小物グッズ屋でよく見る線香たてのように見える金属性のへらみたいなものを見せたところ、これも古銭だという。50年位前に流通していたというが先ほどの近代的なフランスの植民地硬貨と同じ時期に使われていたというのは、にわかには信じがたい(うそかもしれない)。金属のへらみたいのの、もう少し小さいものもあったが、これは150年前のものと言う。ちなみにこれは帰って調べたら、トラの舌通貨と呼ばれるタイの通貨とされている。分銅かと思っていた象の5匹並んでいたものも通貨だという(何のことはない。全部、お金ではないか!でもこんなばらばらな貨幣を、同じ国の人が使っていたとも思えない?)。昔の薄い木の板に書いてあるお経(たぶんサンスクリット語)を束ねたものやら、壷やら面白そうなものがたくさんある。まあ、いろいろ謎が多くてミステリアスでいいではないか。売りっ気もまったくないし、それだけに掘り出し物はきっとあるのだろうが、いつまでもここで時間を食っていいるわけにもいかない。

市場の方に行くと、まず屋台群にぶつかる。腹ごしらえだが、一応、無難な(来週から仕事なので、お腹をこわしているわけにはいかない)火を通したものということで、手頃な焼き鳥を見つけ、注文。例によって1,000Kip単位で、安い、うまい、早い。最初から火をとおしてあるのだが、注文すると炭火で、その場で、仕上げに焼いてくれる。味付けが何故か抜群である(たれの材料を聞いておけばよかった)。屋台の裏にちょっとした机+いすがあり、ビアラオ(Beer Lao)大瓶7,000Kip(カフェでは小瓶がUS1ドルだった)と一緒に食べると最高である。なかなかいけるので、ついつい数本いろいろ食べる。屋台の裏にいると、照明にあたる客の顔が見えて、何を考えているかわかり、おもしろい。日本人のアベックもいたけど、ガイドブックを見ながら一生懸命コンタクトを試みていたな(えらい!)。ただ、こういう場合、手振り、身振りが一番。ここを出るころには、夜も更け、人もずいぶん増えており、各屋台で相当盛り上がっている。

ちょっとはいったところにゲームセンターがあり、挑戦。ゲームセンターと言っても、縦10センチくらいの瓢箪型の風船を縦6個、横8個くらいの木枠に並べ、プラスチック製(矢の先は金属)のダーツの矢で、2メートル位のところから割るきわめてシンプルかつ、スリリングなゲーム。『ラオ・ダーツ』と命名。10軒くらいある。1,000Kipでダーツ矢を3つもらい、3個とも的中するとお土産がもらえる。挑戦すると、2個目で失敗。あきらめたところで、3発目がいわゆる2枚抜きならぬ、2個割りで、見事ピンク色のジュースをもらう。ただし、あまりに人工的な色と味のため、人なめしただけで、十分な味であった。たぶん仕入れ値は、10本1,000Kipくらいなのだろう。

フランスパン屋などもあり、さすが元フランス(味も問題ないのはベトナムと同じ)。土産物屋(道路に物を並べているだけ)も少しじっくり見て回る。売子は、ほとんど女性だが、売りっ気のあるのないの、民族衣装を着ている人、女の子から、子持ち、おばあちゃん等、売っている人を見ているだけでも面白い。電卓のみ、または英語片言レベルが普通だが、中には、日本語ぺらぺらの14歳の少女もいた。日本語はできるが、勉強はぜんぜんだめということまで、きっちり日本語で説明できる?少数民族のひとつであるモン族のデザインがモダンで、肩掛けや、小物入れをつい買ってしまう(渦巻き模様や、人を簡略化したデザインのもので、NYの近代美術館に飾っておいても大丈夫?)。ただし、安かろう悪かろうのところはあり、買ってすぐ壊れてしまったものもある。これも手作りの良さ?はっきり言って安いので、壊れても腹も立たない。子連れの人は、商売熱心で(子供を担ぎ出しての熱演である)、ショールと壁掛けを買ってしまう(安いので、後悔なし)。ビアラオのTもついでに購入。

食べものといえば、たこ焼きなべの大きいのに、白い甘い液体をいれ、ひとつひとつちっちゃな蓋をして、適当に煮つまり固まってきてプリンみたいになったところで、二つあわせて売っているものがあり、デザート代わりに食べてみるがこれまた美味。商業主義と無縁のところで、長い間引き継がれているものには、本物のおいしさがあります。最後に食べようと思っていた、秋田のきりたんぽのように、へらにご飯をなすりつけて焼いたものが、売り切れになっていたのは、心残り。子供時代を思い出させる癒しの町というところです。

第三日

早くも最終日になってしまいました。今日は、ちょっと早く起きて、托鉢を見に行くことになりました。早いといっても6時過ぎですから(シンガポール時間では7時過ぎ)、たいしたことはありません。ただ、ガイドのお兄さんは、昨夜友達のカラオケの誘いをこの仕事のために断ったのだと威張っていました。聞くと、ディスコが1件、カラオケが3件あるそうな。観光客は、行かないと思いますが。

まず手始めに町の西の方で、数十人の托鉢を見る。肩を片方出しているのが、修行中の僧で、托鉢に回るらしい。ちなみに頭を丸めで修行する期間は、数日から一生とさまざまで、結構自由とのこと。サスクリット語とパーリ語をマスターするのがたいへんらしい。徴兵制は内戦終了とともになくなったとのことで、徴兵に駆り出されるシンガポールの青年たちとどちらが幸せか。日本はどちらもないが...

お米をあげる人は、町の人に混じって、観光客もいる。観光客目当てに花や、米を売っている行商人もいる。修行中のお坊さんあげるのは、炊きたてのもち米で、僧は、僧院に持ち帰り、朝食と昼食にするようである(そういえば我が家近くのシンガポールのオーチャード通りには、寄付集めの学生がたくさんいるが、一種の托鉢と言えるかもしれない。最近は、場所代と思っていつも1Sドル寄付するようにしている)。僧は、昼以降は、水、タバコ以外禁止であるので、確かに太った人はいない。きわめて健康的な生活(タバコはどうかしらないが)を送っているようである。
次に、昨夜、マーケットになっていたあたりの町の中心に移動し、もっと大きな列に出会う(400〜500人)。この町では、一番大きな列らしく、観光客がたくさんいる。僧達は、黙々と次々にお米をもらっている。中には、花をあげたりしている人もいる。観光化されてはいるが、暗黙の一定のルールの中で、粛々と行われる儀式は、ひんやりとした空気とマッチして、皆を落ち着いた気持ちにしてくれる。

今日は、昨日より、天気がいいようで、霧もそんなに深くない。ただ、乾季の中、2日連続で珍しく降った雨のせいか、昨日より、メコン川の水量は増したようである。出発まで、自由時間なので、町をぶらぶらすることとした。

まずホテルのミニバスで、町のセンターとホテルの中間位にあるチャイニーズマーケットと呼ばれる市場に行ってみる。観光客は一人もおらず、まさに地元の人たちのためのマーケットであるが、ごった返している。外は、生もの中心、建物の中は、雑貨が中心であるが、生活のためのものは何でもそろいそうである。ただし、雑貨類を見ると、やはり相当原始的なものが多い。肉、魚等ダイナミックな売り方(平たくいうと非衛生的)は、東南アジア共通。大ねずみの開きみたいなもの(それともコウモリ?)も売っている。シャンプーは、直径5ミリくらいの紐状で、ちぎって使うのか。タバコをためしに買ってみるが(普段は吸わないが、社会勉強のため)、アメリカ製と見紛うばかりのしっかりしたパッケージで、フィルターもついており、3,000Kip(ブランド名はVerginiaだったかな?)。味も、しっかりしており、まったく問題ない。むしろ近時の気の抜けたような味のタバコよりいいかもしれない。タバコ文化も植民地時代の落とし子なのだろうか。

ここから、一路東へ、ひたすら(たらたらとも言う)歩いて、ワット・シェントーンをめざすことにします。

まず左側に、ワット・パバートタイという寺院が見えてきます。正面に王様か、金持ちの胸像がありますが、奥への入り方がわからず、そのまま出てきました。一部の本には、ベトナム寺とよばれ、寝釈迦仏、釈迦の足跡があると書いてあるものもありますが、真偽不明(今の建物は古くはありません)。

次に見えてくるのが、右手にちょっと入ったところにあるワット・タートルアン(大きな塔の意)。ヴィエンチャンの一番有名な寺院と同じ名前ですが、こちらはかなり質素です。1514年にビスンナラート王によって建立されたものですが、塔自体は、1910年にシーサワンウォン王により建てられたものである。入り口には、ナーン・トランニーと呼ばれる長い髪を池の水に変えて、敵に襲われそうになった仏を救ったといわれる女神の像がある。この像は、町に向かう道の真ん中にモニュメント的にも使われていたくらいなので、有名な話なのだろう。王室様の遺灰を納めるお寺とガイドのお兄さんは言っていました。金色の方の塔は、シーサワンウォン王の納骨堂になっているらしい。勉強不足でよくわからなくてすいません。

いよいよ町に近づいて来ると、ホテルプーシー(コロニアル風のまともそうなホテルです)の手前右側にワットプラマハットがあります。この辺は、コロニアル風の建物と、寺院が交錯しており、いい雰囲気です。この寺院は、1500年代に建立されたらしいのですが、今の建物は、100年前くらいにできたようです。典型的なルアン・パバーン様式で、豪華です。入り口の手すりは、大きな魚が竜(ナーガ?)を吐き出したようなダイナミックなデザインです。

その向かいの道路左側に郵便局があり、寄ってみましたが、土曜で、切手コーナーは、クローズでした。開いていたとしても、そんなにお客が来るとは思えませんが。でも、奥へはいると、私書箱がずらっと並んでいたり、預金用の窓口があったり、それらしい設備は一通りあります(そう言えば、ホテルで大枚US1ドルをはたいて、絵葉書を拙宅宛てに送ったのだが、結局つかなかった。1年くらいたってから着くかもしれない、ミャンマーの時も忘れた頃に着いた)。

今日は、天気が良すぎて、やや疲れたので、ここで一服。町の真ん中にある(ニュールアンパバーンンホテルの横)カフェみたいなところで、コーヒーを飲みました。建物の中にもテーブルがあり、涼しくてたいへんよろしい。ちなみにコーヒーはラオカフェと呼ばれているが、飲んだあと、粉っぽいものが残るもので、ベトナムコーヒーと同じ系統かと思われる。この店は、夜のマーケットのどまん前に位置し、音楽を流し続けていましたが、夜は、民族舞踊のショーをやっていた様子(看板からの推察)。

ここからちょっと西に戻ったところから、メコン川に向かって降りていく通りに、店や、市場が出ているので、ぶらぶら見ましたが(こちらは生活品中心)、時間をはずしたせいか、活気はいまいち。道も無舗装の田舎道。道路をはさんで反対側にも市場群がありますが(こちらは土産物中心)、ここも開いてはいるものの静かめ。日中ここで力を蓄えて、夜の商売で、中央通りに踊り出て(どうやって場所取りをしているのか知りませんが)、本気で商売するということのようです。

中央通りに戻ると、初日行き損ねたワット・マイという有名なお寺があります。東に向かって道の左側、王宮博物館の手前になります。1821年建立と伝えられますが(本によってばらばら、もっと古いかもしれない)、作るのに70年もかかったらしい(ちょっとオーバーではないか)。五層の屋根は、ワットシェントーンをしのぐ美しさとも言われているが、確かに立派である(ただ、その意味、効用は不明)。中の仏像も立派で、大きな仏像の裏に回ると、小さな仏像や、涅槃仏が後ろを向いている。フランス人の団体が、裏も一生懸命見ていたので、由緒のあるものなのだろう(いい加減なGuess)。本堂正面の黄金のレリーフも見事なものです。

そこから王宮博物館を過ぎて、東に向かうと道の両側にいわゆるチャイニーズ風のショップハウスが並んでいる。ここは土産物や、カフェ、ツアー会社などが立ち並んでいるところで、どうも観光客の溜まり場のようである。しかも白人ばっかりである(ここはどこ?)本屋があったので、入ってみると、ほとんど古本屋状態で、蔵書は我が家の蔵書の数とどっこいどっこい。店番の女の子はほとんど寝ているし、時間が完全に止まっている。ただ、言語別に棚が整理されているところは評価できる(流石インターナショナル・シティ?)。目当ての町の地図はなく、すごすごと退散(飛行場の中の壁で、日に焼けてほとんど白黒になった絵地図は見たのだが、他では地図というものを見つけられなかった)。鎌倉を歩けば、いたるところで、町歩きマップを売っているのに....土産物は、和紙で作ったランプや、竹製品など、味わいのあるものが多い。近時、観光地に並んでいる、大量生産製品は、ひとつも見つからなかった(カンボジアでは、マグネットや、マウスパッドなど、ちゃんと売っている)。

ショップハウス群を抜けると、寺院が次々と続く。このあたりからは、両側を川にはさまれた場所になるので(メコン川とカーン川に挟まれた半島みたいなところ)、メインストリートからは、降りたところに民家がところ狭しと並んでいる。一生懸命人々が洗濯ものを干したりしている。寺院も、隣との境が明確でなく、どこから違った寺に入ったのかわからない。寺院名を書いた看板もろくになく、ガイド本にも載っていたり、載っていなかったりで、場合によっては、名前が違っていたりする。

最初に左側に見えるのが、ワット・セーンで、これはかなり立派。ガイドブックにも載っている。1718年にチャオ・ハーンによって建立され、1957年の釈迦生誕2500年を記念して、大改修されたとのことである。7メートルくらいの立仏像があるが、かなりの大きさである。デザインも美しい(所謂雨乞いのポーズ)。その道の右側には、ワット・キーリーがあるが、コンクリート造りながら、屋根はラオス風で、違和感はない。そこから、また左側に『Wat Sop』、『Wat Muang Khun』、『Wat Bun Heuang』と寺院が並ぶが、どんな寺かは不明。ただ、どの寺も現役で、きれいに手入れされています。

そうこうしている内に、ワット・シェントーンの横の入り口に、気が着いたらいました。ちゃんと5,000Kip払って、もう一度ずっと見ましたが、初日よりも天気がよかったので、よりきれいです。お堂の中で、のんびり涼みましたが、人もほとんど来ず、ゆっくりできます。線香も勝手につけてお祈りすることができます(寄付は一応します)。

寺を出たところで、トゥク・トゥクを拾い(当初20,000Kipと言って来たので、ぐずぐず言っていたら、競争相手が現れて、急に10,000Kipに値下がりしました。ここも競争は厳しいようです)、ホテルにたらたら戻りました。なぜここからあっけないかと言うと、まだまだ時間があると思っていたのが、飛行場へのピックアップ時間が近づいていることに急に気づいたからです(これをタイピングするのに疲れたからではありません)。

ホテルで、ちょっと食事したら、すぐ迎えの車が到着。飛行場まですぐです。ちょっとなじんだ町を抜けると、田んぼや、病院や、学校や、無名戦士の塔やらがありますが、大したものではありません。飛行場では、結構人がいましたが、比較的きれいで、のんびりできます。
また、暇つぶしにバンコックエアウェイズのパンフレットをまた見てみたら、中国の最南の町のツアーも売り出し中のようです。シーサンパンナという町らしい。その町の様子は、中国というよりタイかラオスですね。
飛行場で、ガイドのお兄さんとも別れ、またぞろプロペラ機に乗り込み出発です(PG631便、午後3時発です)。あまったKipをみんなあげたので、喜んでくれたでしょう。ここの飛行場は、一応ハイジャック防止用のゲートがありますが、何にも反応しないし、スーツケースのX線もどうだか怪しいものです。飛行機の発着スケジュールを見ると、バンコックとは1日1往復しかないようです。しかも、バンコックに行く便の方は、必ずスコタイに寄るようです(日によって違うのかもしれない)。

飛行機が離陸すると、天気がいいので、メコン川がよく見えます。ルアン・パバーン(またはラオス)が、とんでもない山の中にあることが、改めて実感できます。しばらくすると、やっとタイに入りますが、急に平野になり、同じ農業をやるにも、全然環境が違います。

スコタイはトランジットだけですが、オープンエアーのトランジット待合になっており、飲み物、軽食のサービス付。飛行機から待合までは、遊園地によくあるようなトラムが運んでくれますが、アンコールや、スコタイの絵が描かれており、運転手さんも、ジャングル探検隊のような格好をしていて、雰囲気を盛り上げています。ここで1日泊まると、スコタイ遺跡が見れるようですが、いつか来れるでしょうか。

ちょっと長くなってしまいましたが、2泊3日の旅とは思えない、充実の旅でした。
お勧めです!
今度来る時は、もっとのんびりしたスケジュールで、もっといろいろ田舎の村を回ってみたいものです。

最新情報はラオス観光局のホームページでご確認ください。