西蔵七日  SEVEN DAYS IN TIBET

第四日 (Day 4)

今日は、いよいよラサ(チベット語で「仏の地」の意)のメインの日である。まずは、ジョカン(大昭寺)に向かう。ホテルからは、車で、ほんの10分くらいである。



車(といってもタクシーだが)は、ジョカンの脇の、林廊北路で下り、露店が並ぶ中バルコル(八廊街、Barkhor)に向かう。バルコルは、ジョカンの周りを一周している道で、お参りに来た人が、まず右回りに一周してから、お参りをするのである。このようにお祈りしながら、寺院の周囲を回ることを、コルラという。つまり、ここは、コルラのメッカ?なのである。ここで、いわゆる携帯用のマニ車をくるくる器用に回しながら歩く、チベット各地から巡礼に来た人々を初めて見る。服装、装飾、髪型などが、様々で、珍しくもあり不思議でもある。チュパと呼ばれる長いドテラのようなものを着ている人や、団子みたいな飾りを頭につけている人や、真っ赤な鉢巻みたいのを頭に巻きつけている人や、いろんな民族の人が集まっているのがわかる。また、五体投地(キャンチャ)をする信者達も多数見る。五体投地とは、まず手の平を合わせ、それから頭、口、胸に当て、最後うつ伏せになってお祈りする方法である。一回お祈りしたら、手の届いたところから、また同じお祈りを繰り返す。尺取虫方式である。1回のお祈りで、2m弱進むのだろうか。これを繰り返したら、すぐぼろぼろになってしまうので、体をプロテクトする胸用マット、手の平用マット、ひざをプロテクトするひざ用マットをつけている。それでも、防御のないところは傷だらけである。服もぼろぼろで、姿は乞食と変わらない。五体投地をしている人々には、他の巡礼者から、お布施が納められている。この難行苦行をすると、救われるのであろうし、巡礼者からは、仏に一歩近づいた人ということになるのだろう。一見、パフォーマーに近いが、老若男女真剣にお祈りする姿には、すがすがしさすら感じられる。子供連れでやっている人もいるが、子供は宗教心というよりは、面白がってやっている。



バルコルには、昔ながらのチベット風の家が立ち並び、その前に、屋台風お土産屋が軒を連ね、巨大なマーケットになっている。立派なみやげ物屋には、骨董品的な価値のあるタンカや、仏像も売っていて、値段もかなり高い。一方、屋台では、民芸品がところ狭しと並べられており、値段は千差万別。本当の値段を知るには相当の時間が必要。ただ、手作り感にあふれており、楽しい。旅行に行くと、マグネットやキーホールダーを買ったりするものだが、工場で作るような類のものは、一切見かけなかった。どんなお土産を買ったかは、お土産のコーナーご参照。店先では、タンカに絵を描いている職人もいる。



バルコルを一周すると、いよいよジョカン(大昭寺、Jokhang Temple ) である。正面には、五体投地をする信者がたくさんいる。ここの集中度が一番高いが、朝早くには、ポタラ宮の前でもお祈りする人々が見られる。香草(サン)をもうもうとたく巨大な香炉が両側に立っており、付近一帯が煙に覆われている。ジョカンの正面の広場は、バルコル広場と呼ばれている。正面の右側の脇道のような所から、中にはいるが、吹き抜けの3階建てになっており、巨大である。入った左に、ダライラマの王座がある。



ジョカンは、元々7世紀中期に創建された吐蕃時代の寺院である。ソンツェン・ガムポ王を偲ぶ寺院と考えられている。強大となった吐蕃が唐に婚姻を迫り、皇族の文成公主を迎え入れ、ラモチェ(小昭寺)を建てた。それを見たチベットから嫁いで来た、ティツン王女も寺院の建設に取り掛かったが、壊されてしまい、ラサの地形が凶相であることに気づいた文成公主が、相を変えるため、湖(Lake Wothang)を埋めて、ジョカンを建てたのが最初と言われている。ちなみに、この時、大量の土を山羊に運ばせたことがラサの地名の由来になっているという(ラ=山羊。サ=土地)。これらの伝説も壁画(フレスコ画)に描かれている。フレスコ画はすごいのがたくさんあるが、全部見切れない。暗くて見づらいものもある。

その手前のスペースから、狭いマニ車に囲まれた廊下を右回りに一周し、次々と並ぶ仏を治めるお堂を巡礼していく。巡礼者が、バター灯用の、バターなどを持ちながら、それぞれのお堂の前にところ狭しと並んでいるので、全部お祈りすると相当時間がかかる。それぞれのお堂に、観音、弥勒、薬師様等が奉られており、それぞれありがたい姿をしている。入り口から見ると、奥の正面に当たる位置に、釈迦堂があり、ご本尊のお釈迦様が納められている(12歳のお釈迦様とのこと)。このお釈迦様は、文成公主が、ソンツェン・ガムポに嫁ぐ時、持参したと言われている。国宝中の国宝と言えよう。
その中央の吹き抜けになっているスペースには、パドマサンバヴァ像や、千手観音像、弥勒菩薩像など神々しい塑像が並ぶ。まさに異空間という感じで圧巻である。お坊さんと、超能力者と、仏様が渾然一体として、奉られているので、頭がくらくらするほどである(正直、勉強不足の私には、訳がわからなかった)。ちなみにパドマサンバヴァは、8世紀頃のインド密教の行者である。お堂を回る通路は、白いスカーフ(カタ)をかける人や、仏様に必死にお祈りする人や、バターをバター灯に、奉納する人やらで、こちらもほとんど訳がわからない。亡くなった人の名を、お坊さんに、お経の書いてある紙に書いてもらっている人もいる。家の仏壇に、納めるのだろう。読経が絶え間なく聞こえ、荘厳な雰囲気である。チベットの人は、このようなたくさんの人がいることに慣れていないようで、とにかくよくぶつかるし、ぶつかったからといって謝る訳でもない(ヤクにぶつかったくらいの感触なのだろう)。人にぶつかったら謝るという習慣がないのである(人にぶつかるということが田舎ではないのだろう)。2階への階段の上り口に、大きな穴の空いた石があり、皆その穴に耳をあてているが、水の流れる音が聞こえるそうである。湖を封じた石と言われている。残念ながら、私には音は聞こえなかったが。





2階に上がると、お堂の中を上からも見下ろすことができる。そこからさらに上にあがると屋上である。屋上からは、金色に輝く屋根(The Golden Roof )、法輪(The Gilded Great Prayer Scripture Flag)、その奥にポタラ宮を眺めることができる。この眺めは必見である。ちなみに、法輪は、仏様を表し、その両脇の金色臥鹿(The Holy Wheel of Double Deer)は、仏様が、インドのサルナート(鹿野苑)で最初に説法した時に、5人の修行者と森に住む鹿が聞いていたという故事にちなんだデザインとのことである。屋根を、歌を歌いながら、棒でたたいている人々がいた。かなりの大声で歌っており、歌を歌うためのエネルギーも相当なものと思われる(本によると、Ngakag Ceremonyというらしい)。軒の作りなどもひじょうに凝っていて、体が動物で、頭が人間(スフィンクス?)の像が屋根を支えていたり、竜のような飾りが屋根から突き出したりしている。



次は、いよいよポタラ宮なのだが、入場時間が午後3時40分で(予約制)、時間があるので、セラ寺に行くことにする。ちなみに、ポタラ宮は混雑緩和のため、10分毎の入場時間が決められている。その券も前日に入手しなければならない。面倒くさいようだが、ゆっくりと見られるので、この方がよいと思う。



セラ寺 (色拉寺、 Sera Monastery ) は、町の北8kmくらいのところの山にある。デプン寺同様、僧院が立ち並んでいる。ツォンカパの2大弟子の内の一人であるジャンチェン・チョジェ・サキャ・イシェ(Jamchen Choje)によって1419年に創建された。日本人の多田等観や、河口慧海という有名なお坊さんもここで、チベット仏教を学んだということである。ちなみに、河口慧海という人は、日本で初めてラサに来た人と言われている(約100年前の明治時代のこと)。入り口を入るとチョルテンを呼ばれる仏塔とマニ車が並んだスペースがあり、香草がもうもうと焚かれている。そこから、僧院が並ぶ中を、登って行くのである。



チェ・タツァンは、セラ寺の中で一番大きい学堂である。ダライラマの寝所でもあったそうである。その脇に、問答修行をする広場(Debating Garden)があるが、修行はしていなかった。問答修行は、体全体を使いながら、問答する修行である。見たら漫才のように見えたかもしれない。メインの建物は、ツォクチェンと呼ばれる集会場(Tsokchen Assembly Hall)で、お坊さんの塑像や、仏像が立ち並んでいる。お経もたくさん納められている。一定の修行を積んだお坊さんは、これらのお経を見ることができるが、全てを理解するのは、一生かかっても難しいそうである。とにかくすごいボリュームである。まず、サンスクリット語で書かれているので、我々では、まったく手が出ない。お経は、四角で、細長い箱に入っており、棚に有難く並べられている。棚の下は、くぐれるようになっている場合も多く、その下をくぐると御利益があるそうで、中腰になって、その下をくぐっている人も多い。山の上の方にも今は使われていない僧院があった。ツォンカパが修行したところとのことである。文化大革命により、一旦は、相当のダメージを受けている。ポタラ宮はその被害に遭わなかったが、周恩来のおかげなのだそうである。毛沢東という独裁者とその参謀であった周恩来。どちらが欠けても今の中国はなかったのであろう。まあとにかくすごい国・民族である。



またまた野菜がいっぱいで、無茶苦茶おいしい中華料理を食べて、いよいよポタラ宮(Potala Palace )ある。ここで、パンダ君は、我々のチベット入境証の手続きがあり(事前には、FAXで確認状だけ受け取り、現地で、立派な入境証をもらう仕組み。入境証は見ただけだが、ビザと同じようなしっかりしたものである。パンダ君がずっと保管しており、その間手元にはパスポートもなかった。検査された形跡もなかった)、他のガイドにバトンタッチ。寡黙なイギリス人と伴に、見学することとなった。車で、ポタラ宮の左裏までずっと登るのだが、車から降りてから、さらにまたかなり歩くので、結構きつい。本には、料金(お布施)払えば、写真撮影可と書いているものもあるが、内部は、全て撮影禁止であった(2004年夏)。



ポタラ宮(観音菩薩の住む山の意)の建設は、7世紀に始まったとも言われるが(吐蕃を興したソンツェン・ガムポの時代)、ダライラマ(ダライ=大海、ラマ=師、”Ocean of Wisdom")5世("Great 5th")が、清朝より、チベットの統治を公認されたことをきっかけに、17世紀に建設したものが、現在の建物で、建設は、ダライラマ5世の崩御後も(12年間秘密にされた)摂政のサンゲギャッツォにより続けられ、完成に50年を要したという。ダライラマ5世は、デプン寺から、ポタラ宮に居を移し、その後も延々と工事が続いたのである。マルポリ山(紅山)の山麓にあり、13階建てで、119mの高さがある(長さは、360m)。1959年3月に、ダライラマ14世がインドに亡命するまで、約300年に渡り、宗教上も政治上も、チベットの中心だった。ちなみに、ダライラマは、観音菩薩(Avalokitesvara)の化身であり、ダライラマに次ぐパンチェンラマは、阿弥陀如来の化身とされる。これら高僧をリンポチェと呼んでおり、死んでも生まれ変わる転生活仏のみなさんなのである!! 白宮と紅宮からなり、中は迷路のようになっており、宮殿、仏堂、習経堂、学校、僧院など、部屋は1000位ある。特に宗教の中心であった紅宮に有名な宝物類が多い。白宮(政治の中心)の最上階には、日光殿があり、ダライラマの私邸になっている。



まずは、経典(ペチャ)を納めた棚をくぐり、歴代ダライラマの塑像が並ぶ観世音本生殿がある。ダライラマがここで、人々と会っていたころの様子が目に浮かぶようなすばらしい空間である。そこから横に入ると、ダライラマ5世の霊塔を中心とする霊塔群がある。霊塔といってもその規模の巨大さ、豪華さは、筆舌に尽くせないものがある。その中の最大のダライラマ5世の霊塔は、高さが14.85mあり、5トンの黄金が使われている。瑪瑙やダイヤなど、1500個の宝石が使われているそうで、とにかくとんでもない豪華さである。ガラス越しにしか見れないが、そのガラスには、世界各国のお札のお布施が並べられており、このお札も面白い。霊塔は他にもずらっと並んでおり(全部で八基)、圧巻である(いくら形容詞を並べても足りない)。ダライラマ13世の霊塔も高さ14mあり、5世の霊塔と並び、豪奢である。この階の中央は、西大殿と呼ばれるホールになっており、ダライラマ達の葬式や、中国の皇帝との謁見が行われた場所とのことである。

2階(第3層になる)に上がると、時輪殿(The Wheel of Time Hall)と呼ばれる部屋に、チベット密教最高の奥義とされるカーラチャクラ(kalachakra、時輪)の立体マンダラ(Mandara Lhakhang)がある。その金色に輝く本体、埋め込まれた宝石類、細かい装飾に見入るばかりである。不思議、豪華、ミステリアス、いくら言葉を並べても足りないくらいである。チベット仏教の一級品で、これもガラス越しに見ることになるが、回りを1周できるので、堪能できる(霊塔は、正面からしか見れない)。ニンマ派の開祖(8世紀ころ)で、インド密教の行者であるパドマサンバヴァ(Padmasambhava)を奉った持明仏殿には、パドマンサバヴァの7変化の像などもあり、頭がくらくらしそうな不思議な世界が続く(こんな表現ばっかりですいません)。仏様は、みな金色に輝いており、日本の仏像とは、まったく趣が違う。黄金も大量に使用されているのだそうである。
ちなみに、チベット仏教には、4大宗派があり、すでに出てきたゲルク派(黄帽派)と、ニンマ派(紅帽派)の他に、サキャ派(吐蕃王朝の末裔クンチョクギェルポが11世紀に興し、元の庇護を受け栄えた。タントラを重視する。転生ラマ制ではなく、世襲制である。)と、カギュ派(仏典翻訳家として有名なマルパが開いたが、その弟子のミラレパが吟遊詩人として名高い。密教的色彩が強く、転生活仏制度を作り上げた)がある。

第4層にも、きらびやかな霊塔や、瞑想するための部屋や、ダライラマの居室などとにかく見るものがたくさんあり、時間がいくらあっても足りない。歴史的建造物でもあり、宝物館でもある。すべて屋内で、壁も厚いので(1m位あった)、ひんやりした中で(冬は暖かい?)、ゆったりした気分で、落ち着いて見られる。建物自体も当時どうやって作ったのかわからないが、巨大で、しっかりした見事な作りである。



屋上は、補修中なのか、立ち入り禁止になっており、そのまま紅宮を出るが、そこは紅宮の横のやはり屋上になっていて(デヤンシャルと呼ばれている)、紅宮を真近に見上げることができる。すごい迫力である。日本の城より全然大きいし、ヨーロッパのお城と比べても、その質量で、勝つのではないだろうか。
正面のポタラ宮広場や、周りの山々も見渡せる。すばらしい眺めで、歴代ダライラマもこの景色を眺めていたと思うと、感慨深い。ただし、手前の町の景色は、その当時とは様変わりになっていることを断らなければならない。まず、当時は、広場の場所は、仏塔が建っていて、壁に囲まれた城下町のようになっている神聖な場所だったのだが、中国政府により、撤去され、天安門広場のミニチュア版のような何も面白みもない広場に変わってしまっている。この城下町の雰囲気は、Seven Years in Tibetにも、よく描かれている(初めてブラッド・ピットがラサの町に入っていく場面)。残念だ。また、町もビルが立ち並び、風情はない。町の向こうを流れるキチュ(ラサ)川とその奥の山は当時とあまり変わっておらず、風情を残している。





そこからポタラ宮の白宮の前を斜めに走る大階段を下って行くのだが、そそり立つ白壁と立ち並ぶ窓は、外から見たポタラ宮のハイライトである。お祭りの時は、この白壁に巨大なタンカが飾られるのである。そのまま呆然として降りていくと、ポタラ宮広場に出る。名残惜しいので、広場の奥の屋台で、ジュースを飲みながら、のんびりする。ここで、パンダ君に合流。パンダ君は、そばを注文していたが、辛くて食べられなかった。多分四川の味付けだったのだろう。なぜか、自動身長、体重測定器で商売している人がいる。それ自体はいいのだが、客寄せのための音楽がうるさく、興ざめではある。ただ、地方から出てきたと思われる人が結構お金を払って、身長測定と体重測定をしている。何故か、みな汚い背広を着ているのが、面白い。ポタラ宮巡礼ということで、正装なのだろう。ここから、ポタラ宮の全体を撮ろうとするが、あまりにもでかすぎるのと(幅がありすぎる)、手前にケ小平生誕100周年の垂れ幕がこれでもかという大きさで飾られているのと、シャビーな街灯が並んでいるのが難(要するにいい写真はとれない)。



一旦ここで、ホテルに戻ったが、夕食まで時間があるので(夕食は、日がなかなか暮れないので、いつも8時からであった)、ぶらぶらポタラ宮をまた見に行った(慣れたので、三輪タクシーを使う必要はもうない)。ポタラ宮の左前からの絵葉書のアングルがいいと思ったので、その場所を探す散歩でもあった。ホテルから歩いて行く途中に、黄金のヤク像がある。ヤクは、ラサのシンボルであり、堂々とした2頭のヤクが、道のど真ん中(RUNABOUTになっているのだが)にそそり立っている。その後ろのビルに、”熱愛拉薩”=”I love Lhasa”の看板が見える。ヤクのすぐ向こうはポタラ宮だ。その脇に薬王山があり、本当はそこに上ると一番いいと思われるのだが(そこには、かつて学堂があり、チベット医学の中心だったが、今は移転され、山へ上ることも禁止されたとのこと)、諦めて、さらに行くと、高さその先に10m位の丘があり、ここから絵葉書の写真が撮られたことがわかった。ここだと、斜めにポタラ宮全体が入ってすこぶるよい。手前にチョルテン(仏塔)もあり、それを前景にすることもできる。



かくして、今回のチベット旅行のハイライト、ポタラ宮の1日は終わった。

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