仏国寺は、新羅の時代、530年頃に創建されたとされます。新羅は、仏教の思想を国家の根幹としようとしていました。現在の仏国寺ができたのは、8世紀とされています。日本で言えば奈良時代のことになります。石窟庵とセットとなっており、同様に、当時の王が、親のために作ったと考えられています。
しかし、豊臣秀吉による1592年の文禄の役の際、ほとんど焼失し、石段、石垣のみが残りました。17世紀以降、段階的に再建され、20世紀に、今の姿になりました。
こじんまりした感じの門です。一柱門と呼ばれています。 仏国寺の文字が読めます。 |
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庭園を抜け、橋を渡った奥に天王門が見えます。 | |
天王門には、両側に二体づつ四天王が、にらみをきかせています。 これは、西方広目天(竜を持っていたそうです)と、北方多聞天(塔を持っています)です。 |
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こちらは、東方持国天(琵琶を持っています)と、南方増長天(剣を持っています)です。 日本の四天王とは、かなり趣が違います。より中国的というのでしょうか。 |
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いよいよ、正面が見えてきました。 正面の石段が、俗界(石垣の下)と、天界(石垣の上)を分ける階段で、その上の門が、紫霞門(チャハムン)で、天界の入り口になります。 橋は、二段に分かれており、手前(下)が、青雲橋、上が白雲橋です。 手前の広場は、昔は池だったといいます。 ちなみに、韓国の除夜の鐘は、33回鳴らされるそうです。 階段も33段あり、須弥山の頂上の三十三天になぞらえられているといいます。 |
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門が上の壇に立ち並ぶ様は、独特で、仏国寺を代表する姿かもしれません。橋が二段構造になっているのがわかります。左(手前)の橋は、安養門につながります。安養門への橋は、下が蓮華橋、上が七宝橋です。 地元の小学生のグループが、遠足に来ていました。 |
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石段の下(二つの橋の踊り場の下)は、東洋としては珍しいアーチ状の構造になっています。 | |
石段は、二段に美しく組まれています。 石柱と石帯を二段に組み、その間に、自然の石をはめこんであります。 高い技術を有していたことがわかります。 |
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門をくぐると天界(仏の世界)にあたる空間が広がります。 正面にあるのが、18世紀に再建された大雄殿(テウンジョン)で、中に釈迦三尊像が安置されています。本尊の釈迦如来は降魔触地の印相で、統一新羅時代の仏教芸術の傑作です。 |
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大雄殿の前には、左(手前)に釈迦塔(ソクカタブ)、右(奥)に多宝塔(タボタブ)が並んでいて、これまた独特の形をしています。 釈迦塔からは、1966年に、舎利函と世界最古の木版印刷物のお経が発見され、ソウルの博物館に保管されているそうです。 釈迦塔は、簡素で、男性を表し、百済の職人を連れて来て、作らせたといいます。多宝塔は、多彩な装飾が施されており、女性を表すということです。 この職人は、自ら作った釈迦塔の影が映らなかったことから、百済においてきてた女性の命がないものと考え、自ら命を絶ったそうです。 こういった言い伝えも、当時の、新羅と百済の関係から来ているのかもしれません。 |
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特に、この多宝塔は、独特の姿をしており、新羅時代の仏教美術を代表するものです。 三重の塔です。石造ですが、木造のデザインのような印象も受けます。上部は、八角形をしており、八正道を表しているそうです。 |