西蔵七日  SEVEN DAYS IN TIBET

シルクロードを駆け巡った人々

シルクロードを舞台に、遠い昔から、様々な人々が、東から西から往き来し、暮らし、交易し、戦って来ました。
記録に残っているものは、その何億分の一かもしれませんが、その一人一人がそれぞれ壮大なドラマの主人公です。
このコーナーでは、シルクロードを駆け巡った人々のごく一部をまとめてみました。

名前 生年 解説
楼蘭(ローラン)の美女 楼蘭王国? 前2,000
年頃
かつて鉄板河が、ロプノール湖に注いだ湾の近くと思われるところで、1980年に発見された女性のミイラ。発見当時の炭素測定の結果、3880年(±95年)前のものと判明した。
小柄だが、目の彫りが深く、鼻が高く、髪が金髪っぽく、明らかにヨーロッパ系の女性に見える。頭には、フェルトの帽子をかぶり、羊皮の靴をはいている。帽子には、雁の羽がさしてあり、おしゃれである。
1992年には、日本でも展示され、大きな話題になった。現在は、新疆ウイグル自治区博物館で、静かに眠っている。
冒頓単于
(ぼくとつぜんう)
匈奴 ?−
前174
騎馬民族である匈奴が最強の頃の王(単于)。甘粛の月氏を打ち破り、モンゴル高原を中心に大遊牧民族国家を打ち立てた。
劉邦が前漢を建国した時期であり、両国は、激しく対立。冒頓単于は、万里の長城を突破し、劉邦を包囲。劉邦は、長安(西安)にからくも逃げた事件も起こった。
漢と匈奴は、その後講和し、劉邦は、単于に妻を送ったり、貢物を送るなどした。匈奴は、その後中央アジアに勢力を伸ばし、シルクロードの経済権益を握った。
張騫
(ちょうけん)
前漢 ?-
前114
前漢の武帝が、匈奴を征伐するため、同じく匈奴を憎んでいたと思われていた大月氏と手を組むため、西域に派遣した人物。中国人として、初めての本格的西域遠征であった。
10年余りも匈奴の捕虜になったり、大月氏との同盟には失敗するなど苦労を重ねたが、やっとのことで帰国し、漢に初めて西域の様子を紹介した。 
現在のカシュガルの西のマラカンダ、バクトラまで、到達したと考えられている。敦煌壁画にも張騫出発の情景が描かれている。
霍去病
(かくきょへい)
前漢 前140-
前117
前漢の武帝の時代の武将で、匈奴征伐のため、6回出陣したと伝えられる。
24歳の若さで亡くなったが、武帝は、その死を悼んで、葬送は、盛大だっという。今も西安郊外に墓が残る。
霍去病、張騫らの活躍で、匈奴は、河西回廊(甘粛省)、中央アジアの支配権を失い、漢の軍門に下った。
王昭君
(おうしょうくん)
前漢 ?〜? 前漢の元帝時代(前49〜33)、匈奴の単于に、和平のため、嫁いだ中国4大美女の一人。ちなみに4大美女は、他に、春秋時代の西施、三国志の貂蝉、唐の楊貴妃である。なぜ、元帝がこの美女を、匈奴に嫁がせたかというと、当時後宮には、数え切れないい侍女がおり、皇帝は全員に会えるわけもなく、画家の絵を元に、人定めをしており、顔に自身があった王昭君は、画家に賄賂を払わなかったため、もっとも醜く描かれていたという。そのため、元帝に匈奴へ嫁ぐよう命令されたのだが、実際嫁ぐ時に、皇帝は王昭君が、本当は絶世の美女だったことを知り、そのショックもあり、その後すぐ亡くなっている。王昭君は、その後、一生を匈奴で、過ごし、漢に帰ることはなかった。
班超
(はんちょう)
後漢 32-
102
73年の匈奴遠征に参加。91年までに西域を平定し、西域都護になった。
パミールを越えて東侵してきたクシャン朝軍を撃退。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」でも有名。
鳩摩羅什
(くらまじゅう)
亀茲
(クチャ)
344?-
413?
亀茲の王族(父は、インド人僧、母は亀茲王の妹)、で、サンスクリット語の仏教経典を漢訳した。サンスクリット名は、クラマジーバ。
インドで仏教を学び、亀茲で布教し、若くして名声を得た。しかし、西域進出をもくろむ呂光率いる前秦に亀茲国は破れ、鳩摩羅什は亀茲の王女と結婚させられ、破戒僧となり、中国へ連行された。その後15年、当時の後涼で、無為な生活を送ったが、その間中国語をマスター。姚興率いる後秦が後涼を滅ぼしたため、長安に移り、8年間かけて、仏教経典を漢訳した。鳩摩羅什以前の訳を古訳、玄奘以後の訳を、新訳というそうである。
法華経、阿弥陀経、般若経など、今知られている経典は、ほとんど彼の手による訳であり、涅槃、観世音、色即是空空即是色、地獄、極楽など、今は当たり前に使っている仏教用語も、鳩摩羅什の訳によるものである。
今は、当たり前に使っている言葉も、よく考えてみると、元々は、サンスクリット語によって書かれていたものであり、それを、中国語(それから日本語)に訳すというのは、気の遠くなるような事業だったはずだ。仏教発展の大功労者。
法顕
(ほっけん)
東晋 337?-
420頃
東晋時代の僧で、399年にパミールを越えてインドに入り、インド各地を回った。帰路は、スリランカから東南アジアを経由して、412年に山東半島の青州に帰国。
晩年は、経典の翻訳(6部63巻)に取り組んだ。
玄奘三蔵
(げんじょう) 
602-
664
西遊記でもおなじみの名僧。国禁を破って、627年に長安を出発。高昌国(トルファン)、亀茲(クチャ)、天山を越えて、インド(天竺)に入り、13年間滞在。仏教を学び、645年に長安に帰国。
その後、持ち帰った仏典の1,400本にも及ぶ翻訳を行い、仏教の発展に大きな貢献をした。翻訳された仏典は、長安(西安)の大雁塔に保管されたという。
孫悟空
(そんごくう)
NOWHERE NOWHEN 玄奘三蔵の一の子分。78変化の技を持つ。筋斗雲(きんとうん)に乗り、縦横無人に飛び回る。金箍棒(きんこぼう、所謂如意棒)を振り回し大暴れ。身外身の術で、自分の毛を抜いて、分身をいくらでも作れる。
かなりの乱暴者だが、三蔵法師には、滅法弱い。三蔵法師がお仕置きのお経を唱えると、孫悟空の頭の金箍児の輪がしまって、七転八倒の苦しみを味わうことになる。
トルファンの火えん山では、牛魔王、羅刹女から手に入れた芭蕉扇で、燃え盛る山の火を消し止めた。
ちなみに、三蔵法師の二の子分は、猪八戒、三の子分は、沙悟浄である。
張勇
(えいじゅう?)
トルファン 583-
633
唐の大将軍。唐から派遣された役人が、増税を続けざまに行う等悪政を行い、商人が国から出て行く状況を見て、、役人に身を挺して抗議をしたという。
アスターナ古墳で、お墓の中に入れる他、ミイラも、新疆ウイグル自治区博物館で見ることができる。胸が厚く、立派な体格の人物であったことがわかる。
麹文泰
(きくぶんたい)
高昌国 ?-
640
唐の時代にトルファンにあった高昌国の王。麹氏の9代目の王であるが、唐の使者を軽く扱ったため、怒りを買い、唐に攻められ滅亡した。
玄奘三蔵がインドに向かう途中、高昌国に立ち寄り、仏教信仰に熱心だった王に請われて説教し、帰りも寄ることを約したが、帰りに寄った時はすでに高昌国は、滅んでいた。
現在も高昌故城の遺跡を見ることができる他、アスターナ古墳で、当時の文物が出土している。
玄宗(げんそう)皇帝

楊貴妃(ようきひ)
玄宗
685-
762

楊貴妃719-
756
唐の6代皇帝。則天武后以来の混乱した政局を建て直し、唐の全盛時代を築いた。しかし、その後、政策は破綻をきたし、楊貴妃との恋にふけるなど政治に興味を失なった。
安氏の乱を招いたため、成都に逃げ、譲位した。逃げる途中に、国を乱した楊貴妃を処刑するよう迫られ、楊貴妃は、縊死した。
この悲劇を詩人の白居易は、長恨歌に詠んだ。西安には、この二人にまつわる史跡(特に清華池が有名)があり、当時を偲ばせる。
中国の支配権が最大であった時期であり、シルクロードはかなりの部分が唐の支配下にあったため、西域に関する詩も多く詠まれている。当時の長安(西安)は、世界を代表するグローバル・シティであった。
李元昊
(りげんこう)
西夏 1003-
1048
西夏王朝の初代皇帝。タングート族出身で、諸部族を併合し大夏(中国の北宋は、西夏と呼んだ)を建国。銀川に首都を置き、北宋を脅かした。
西夏文字を作る等、文化の向上にも努めた。仏教も信仰していたらしい。西夏はその後、忽然と姿を消した。
映画/小説『敦煌』では、重要な登場人物になっている。
マルコ・ポーロ イタリア 1254-
1324
父ニコロとともに、内陸を通って、元の大都(北京)に到着。フビライ・ハンに重用され、17年間中国で過ごし、南海路を使って帰国した。
帰国後東方見聞録を著したが、当時を知るための貴重な資料となっている。日本が”黄金の国”として紹介されたのは、ご存知のとおり。北京の盧溝橋は、マルコポーロに世界一美しい橋と評され、今も通称マルコポーロ橋と呼ばれる。日中戦争勃発の地になったことは残念。
リヒトホーフェン トイツ 1833-
1905
19世紀の後半に、中国各地を踏査。その探検を元に、本、地図を著したが、その中で初めて”シルクロード”という言葉を使った。その後今でもその言葉が、使われている。
ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェエワルスキー ロシア 1839-
1888
ロシアの大探検家。ロシアの国益を背負って、19世紀後半に5回にも渡って、中央アジア地域を探検し、ロプノール論争のきっかけを作ったり、まさに近代のシルクロード探検の先駆者的な役割を果たした。その後の探検隊にも大きな影響を与えている。
中央アジアをめぐる覇権争い(Great Game)の先鞭をつけたといってもいいかもしれない。
ル・コック ドイツ 1860-
1930
ドイツの東洋学者。1904年から1916年にかけて、4回に渡り、シルクロードを探検。
特に、クチャ、トルファンの文献、絵画資料の発見では有名だが、石窟壁画を、次々に切り取り、持ち帰ったことに対しては、批判も大きい。切り裂きルコックというあだ名まである。
持ち帰ったものの多くは、残念ながら、第二次世界大戦で、ベルリンにて失われた。
オーレル・スタイン イギリス 1862-
1943
ハンガリー生まれだが、イギリスに帰化。1900年から、シルクロード南道を中心に、4度に渡る探検を行い、ニヤやミーランの発掘など、多大な功績を残した。
有名なのは、敦煌で、王道士と交渉し、敦煌文書を購入し持ち帰ることに成功したことである。スタインの発掘品は、ニューデリー国立博物館にその多くが保存されている。
スヴェン・ヘディン スウェーデン 1865-
1952
元々地理学者。リヒトホーヘンの影響を受け、3度に渡って、中央アジアを探検した。
探検記録が出版されているが、かなり政治のどろどろした中での、探検であったことがわかる。ロプノールの探検、ダンダンウィリクの調査、楼蘭の発見など、近世の中央アジア探検の歴史では、スタインと共に、まず一番に出てくる人。
絵も上手だったようで、興味深いデッサンをたくさん残している。同じく秘境だったチベットの記録も貴重。
王道士
(王圓ろく)
1876-
1948
莫高窟に住み着いていた道士。16窟に行く途中の壁の中に隠されていた17窟を発見し、そこに大量の文書が保管されていることを知った。
その後、スタイン等の探検家に、文書を売り渡したため、文書は散逸したが、こららの文書が、当時のシルクロードの様子を知る貴重な資料となり、敦煌学という学問にまでなった。
16窟になぜ、膨大な文書が残されたかは、不明である。映画/小説『敦煌』では、西夏の侵略から逃れるためというストーリーになっているが、発見されたものには、西夏以降のものも含まれていることから、現在は、少数説になっている。不要なものを置いておいただけとか、ある寺院の経典保管所だったという説などがある。
大谷光端
(こうずい)
日本 1876-
1948
欧米中心であった、シルクロードの発掘合戦(=当地における英露中印の勢力争い=Great Game)に、西本願寺の法王の大谷光瑞が、大谷探検隊を派遣し、参入。
派遣は、1902年から1914年にかけて3次に渡り、橘瑞超(ずいちょう、1890-1968)らの探検家が、貴重な、文書、壁画を発見、持ち帰った。ミーランで発見した有翼天使像は有名。敦煌文書も、残り物ながら、入手している。
ただ、探検の動機、資金源等謎も多く残されている。発掘品もかなり散逸してしまった。
ポール・ペリオ フランス 1878-
1945
フランスの東洋学者で、やはり敦煌文書を収集し、名を残した。
ぺリオが敦煌17石窟で文書に埋もれて調査している写真は有名で、3週間17窟に通い詰め、結局王道士から5,000点の文書の購入に成功した。
買い取った文書は、現在パリ国立図書館と国立ギメ東洋美術館に収蔵されている。
ウォーナー・ランドン アメリカ 1881-
1955
アメリカの東洋学者。1920年代に2度シルクロードを訪れ、敦煌では、壁画数十枚を、薬品を塗りつけて剥がし取った他、第328窟の供養菩薩を持ち去った(ハーバード大学に展示されているそうである)。
敦煌では、完全な悪人であり、ガイドが丁寧にその悪事を解説する他、第328窟では、その旨の説明書きまで、表示されている。
NHK特集『シルクロード』でも、その剥がし取りの技法が説明されていた。このやり方では、泥棒と言われてもしょうがない。
第二次世界大戦において、京都・奈良などの文化財の被害が比較的少なかったのは、当時ウォーナーが作成したといわれるウォーナー・リストのおかげで、空襲目標からはずされたからだという説があるが、これも実証されている訳ではない。
常書鴻
(チャン・シュホン)
中国 1904-
1999
画家を目指し、フランス留学をしていた時に、カルチェラタンで、敦煌の写真集に出会い、それまで洋画一辺倒だったのが、敦煌の芸術性は、西洋の芸術より数段上と直感し、中国に帰国。1943年から敦煌に入り、復興に人生を捧げた敦煌にとって神さまのような人。常氏がいなかったら、敦煌はもっとぼろぼろになっていたに違いない。画家の視点(+愛国心)から、常氏が発掘調査を行ったことが、どれだけ敦煌の維持・発展に貢献しているか、図りしれない。美しい模写も多数残している。
井上靖 日本 1907-
1991
言わずと知れた大小説家。シルクロード関連では、『敦煌』が有名だが、この小説は、井上氏がシルクロードに行く前に書いたという。
NHK特集『シルクロード』でも、登場するが、心底感銘を受けられている様子がよくわかる。
その他にも、シルクロード関連の短編や、NHk特集『シルクロード』の本に、旅行記を書いている。『天平の甍』もお勧め。
長澤和俊 日本 1928- 今読めるシルクロード絡みの著作では、一番多い方かも。早稲田の名誉教授であられるとのことだが、このシルクロード関係の本の多さはすごい。スケッチも、たくさん書かれており、楽しい(写真撮影禁止のため、スケッチになったケースもあると思うが)。
ホームページを作っている間にも、また新しい本が出たりしている。ちょっと薀蓄したいアマチュアにも読み易い本をたくさん書かれており、ずいぶん勉強させてもらいました。うらやましい人。
平山郁夫 日本 1930- 言わずと知れた大画家。シルクロードへの思いははすさまじく、その渡航歴も超人的。100回以上も旅をなされ、そのたびに膨大なスケッチを行われている。単なる画家としての興味を超えて、仏教、文化財保護、様々な観点から、平山氏とシルクロードとの関係は、密接である。
薬師寺の、シルクロードをテーマにした壁画もすばらしい。平山郁夫シルクロード美術館もマストでしょう。
実は、先生ご夫婦といっしょの写真もあるんです(たまたまの出会いだったのですが)。
椎名誠 日本 1944- 言わずとしれた探険家。小6の時に、ヘディンの『さまよえる湖』を呼んで、探険家になろうと思ったという。奥様との出会いもこの本がきっかけだったという。
1988年の楼蘭への旅は、”砂の海”という本で紹介されているが、椎名氏らしく、ひじょうに飄々と、面白く書かれている。
椎名氏の本は、たくさん読んだが、自然で、楽しい文体が大好きだ。
喜多郎 日本 1953- 言わずと知れたニューエイジミュージックの第一人者。
1980年のNHK特集『シルクロード』のテーマ曲で、人気を不動のものとした。ただ、この曲を作った時は、まだシルクロードに行ったことはなかったという。
私のアメリカ駐在中(1990年頃)は、アルバム『古事記』が発表になって、大評判だった。当時のシンガポールでのコンサートは、長髪で入国できずキャンセルになったとか。
シンガポール駐在中は、一度来てくれて(2004年9月)、生で堪能できた。6人のバックを従えてすばらしいコンサートだった。リーシェンロン、シンガポール首相夫妻も見に来てて、ファンの層の厚さを再認識した。もちろんシルクロードのテーマも演奏した。
DVDやCDがたくさん出ているので、興味のある方はどうぞ。

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