西蔵七日  SEVEN DAYS IN TIBET

第三日 (Day 3)

3日目は、ホテルから近い陝西歴史博物館からスタートの予定でしたが、まだ早くて開いていないとのこと。昨日の日本語可のジャさんは、のどを痛め声が出ないとのことで、運転手が一人で来ました(確かに、昨日のジャさんは、だみ声だったなぁ)。ただ、とてもいい感じの運転手なので、まあいいっかということで、アドバイス通り、まず、碑林博物館に行きました。アドバイスと言っても、身振り手振りと、細かいところは、筆談です。

 碑林博物館



碑林博物館は、西安の城壁を南から入ったすぐのところにありますが、朝一ということで、まだ、空いていました。宋の時代に建てられた孔子廟の裏庭だったのを、1950年に博物館としたとのことです。入場料は、30元。
門を入ると、立派な、参道のような道を行き、碑林という看板の櫓が見えてきます。
この櫓の下にあるのが、有名な玄宗皇帝の石碑です(石台孝経)。結構大きい石にみっちりと書かれていますが、立派な文字です。儒教の教えを、解釈も加え、著したものとのことです。学問的に優れたレベルの人であったことの、ひとつの証左かもしれません。彼の治世の時に、唐は最大となり、シルクロードの支配地域も最大になったのです。これを見ると、唐の時代が、また身近に感じられるようになります。

その奥に、何棟か、展示室が並んでいますが、その中に、ところ狭しと、全国から集められた石碑が並んでいます。全部で2,300基あり、その内、1,000基ほどを展示しています。唐時代のキリスト教布教に関する石碑(異端とされたネストリウス派が、中国での布教を試みたものとされます、大秦景教流行中国碑)、唐の時代の大書家であった王義之(おうぎし)、顔真卿(がんしんけい)の石碑、不空和尚(ふくうおしょう)の石碑等、挙げれば切りがありません。石碑は普通石の台(亀の形をしていたりする))に乗っていて、上の方には、題字のようなものが、書いてあるので、漢字で書かれているものは、じっくり見れば、何が書いてあるか、検討がつきます。ただ、じっくりと、見ていたら、何日あっても足りないでしょう。一つ一つの石碑は、かなり大きいので(高さ3m位?)、全体を写真に撮るのは、難しいです。

一番奥の建物では、拓本取りをやっていました。拓本も、そのコピーも売っています。これらを見ても、中国人は記録を残すことが好きな民族であったことがよくわかります。他のアジアにも優れた文化があったはずですが、残念ながら、クメール王国を除いては、記録が少ないので、あまり解明されていません(クメール王国は、その巨大さもさることながら、石の文化だったことが、その歴史解明において、幸いしたものと思われます)

戻りは、脇から行きましたが(この日は、運転手がいろいろ連れて行ってくれるのみで、ガイドなしです)、小ぶりながら、立派な博物館(石刻芸術室)があります。この中には、仏像や、大きな動物(犀、虎、獅子など)の石像が並んでおり、写真でお見せできないのが残念ですが、かなりの迫力です。動物の石像は、ほとんどが唐時代のもので、陵に納められていたものでしょう。仏像の出来もそん所そこらのものとは、レベルが違います。周から唐の時代のものが多かったと思いました。
その博物館の前には、獅子のようなものを乗せた石柱がたくさん立っていて、14世紀から20世紀にかけて作られたセン馬柱(センは、手偏に”全”)というものであることはわかりましたが、その由来とかは、わかりませんでした(この辺がガイドなしの場合のつらいところ)。

 鼓楼・鐘楼



碑林博物館をぐるっと見た後、車で、西安の中心に近い鼓楼(1380年建造、高さ33m)脇の駐車場まで、行ってもらい、西安の中心にあって、”昔のシルクロード”のオープニングシーン(陳舜臣さんが、この上から、興奮気味にここがシルクロードの起点ですと紹介するシーン)で印象の深い、鐘楼に連れて行ってもらいました。”昔のシルクロード”で見たこのあたりは、薄汚れた古びた町並みだったのですが、今は、鐘楼、鼓楼の建物を除いては、近代的な建物に取り囲まれてしまっています。鼓楼・鐘楼自体も、明時代のものです。

鼓楼から、ビルの脇の半地下の通路を抜け、そのまま地下道をくぐって、鐘楼(1384年建造、高さ36m)にたどり着きます。鐘楼の周りは、大きなロータリーみたいになっていて、地上を渡るのは、無理か、かなり危険と思われました。地下道には、土産物や立ち並び、しっかり金儲けの場所になっています。
鐘楼に登ると(15元)、四方に伸びる街道が見渡せ、ここがはるか昔、中国の中心(今だと天安門か)だったんだという感慨に浸れます。ここから、西へ向かう街道が、まさにシルクロードなのでした。

 清真大寺



鐘楼から、また、今度は、地上の公園(鐘鼓楼広場と呼ばれている)を通って、鼓楼に戻り、その鼓楼の下の門を北方向にくぐると、劇的に、落ち着いた古びた町並みが現れます。ここから、わかりにくい小道を左に入ると、回教徒の住む地区です。学校では、イスラム教のことを回教と習いましたが、これは、中国では、ウィグル地区にいた回鶻族(ウィグル人)が、イスラム教を信じていたため、回教と呼ばれるようになり、当時のユニバーサルシティだった、唐でも、ずいぶん栄えたということなのです。後から、聞いたのですが、ガイドのジャさんの家も代々イスラム教徒で、この地区に住んでいるのだそうです。現在この地区のイスラム教徒の人口は、12万人とのことでした。

この小道には、両側に土産物屋が立ち並んでいます。これは、この先に、西安最大の回教寺院である清真大寺があり(742年創建-イスラム教伝来は、651年-)、この小道が参道にあたっているからなのです。このお寺は今回ぜひ見たかったところでした。なぜなら、シンガポール時代もいろんなイスラム教寺院を見ましたが(大きなものは、大体モスクを有している)、ここのイスラム教寺院は全然違うと聞いていたからです。

行ってみたら、一見普通の中国寺院と変わりません。ただ、道行く人は、皆回教徒がよくかぶる白い帽子をかぶっています。さらに、よく見ると、動物をモチーフにした模様、像などは一切はなく、幾何学模様、イスラム文字をデザインしたもの、石などがその代わりに使われています。寺院内は、広く、人影は多くありませんでしたが、お祈りの時は、どんな状況になるのか、見てみたい気もしました。省心楼という、きれいな建物がありましたが、イスラム教寺院のミナレット(尖塔)に当たるそうです。お祈りのために、西向き(メッカの方向)に造られており、礼拝大殿の中に1,000人くらいの信者を収容することができます。

 陝西歴史博物館



さて、そこから、車に戻り、西安の城門を南に出て、陝西歴史博物館に行きました。
これからシルクロードに向かう人は、是非見ておきたいところです(入場料35元)。写真は撮らなかったのでありませんが、主な展示物(とても全部は触れられないので、一応私なりにベスト10をつけました)について、解説を試みます。
元々陝西歴史博物館の展示物は、西安碑林博物館にあったらしいのですが、周恩来が碑林博物館を訪れた際、小さすぎるとコメントしたため、この立派な博物館ができた(1991年)とのことです。唐風の屋根を持つ、堂々とした造りで、中もゆったりとしていて、じっくりと楽しめます。展示も時代順に見れるので、中国の歴史の勉強をしながら見学できます。元の時代以降、中国の中心が北に移っていったため、展示物が乏しくなるのは、しょうがありませんが。

すごいのは、ここの展示物は、陝西省で発掘されたもののみということです。いかにこの陝西省が、中国4千年の歴史の中で、様々な王朝に関わってきたか、そして、はるか昔から高度な文明を有していたかを、見学者は思い知らされるという仕組です。まさにシルクロードの終着点で、東西文化が、一番高いレベルで花開いたと言えるでしょう。

お宝名 コメント
瑪瑙獣首形杯 
(めのうじゅうしゅけいはい)
1970年に出土。縞瑪瑙(オニックス)を牛の頭と鹿の角をデザインした杯(リュトン)に彫って、鼻先の部分に金製の栓をつけたものです。たぶんアラブの国からの貢物と思われています(デザインはペルシャ風か?)、息を呑む完璧な美しさです。
宮女図 
(きゅうじょず)
実は、壁画は、一部しか公開されておらず、この日も狩猟図(これも有名)のみの公開でしたが、2005年春の日本でのシルクロード展で宮女図の一部を見ることができました。唐代の皇室の陵の壁を保存のためにはがして来たものですが、奈良の高松塚古墳の壁画(パネルが陝西歴史博物館にも展示されていた)との類似性が指摘されているものです。高松塚が発掘された時の、驚きは、さぞかし大きかったでしょう(当時私は、まだ子供でよくわかりませんでした)。初唐の女官はやや細身でしたが、盛唐のころは、ご存知のようにふっくらした姿がポピュラーになりました。
三彩立女俑
(さんさいりつじょよう)
唐三彩も立派なものがたくさんありますが、お土産にも買ったことだし、唐時代を代表するものとしてあげました。まさにふっくらした、盛唐時代のポピュラーな姿をしています。当時の女性がそのまま復活して浮かび上がってきたようです(副葬品であったらしいですから、まさにそれが目的だったのでしょう)。
唐三彩では、駱駝、馬、お椀など立派なものがたくさんありますが、その中でも、楽団を乗せた駱駝は、最も有名であり、興味深いです。
和同開珎 
(わどうかいちん)
日本の最初のお金(708年発行-今ではその前にもお金があったことになっているが)が、西安(当時の長安)で、見つかっています。唐代最初の通貨である開元通宝(621年発行)とデザインがほとんど同じです。当時の日中の交流の深さを物語っています。意外に小さい貨幣でした。中国のお金は、それこそ戦国時代のものから、展示されています。その他、ローマ、ペルシャの貨幣も見つかっており、まさにシルクロードの終着点であったことを示しています。興味は尽きません。
紙 (かみ) 世界最古と言われる紙が展示されています。見たところ、紙か布かわからないようなものですが、紙らしいです。シルクロードは、絹の道であったとともに、紙の道でもあったということです(もちろん仏教の道でもあった)。ちなみに紙がヨーロッパで使われるようになったのは、ずっと後の、中世のことでした。
青釉倒注壷 1968年出土。五代時代のものといわれる美しい淡い緑色の壷ですが、この壷の一番のポイントは、注ぎ口しかないことです。実はこの壷、底に穴が空いていて、そこから水を注ぎます。では、何故底から水がもれないのでしょう。正解がわかった人はメールください。
デザインも、注ぎ口のところに、哺乳する獅子の親子が彫ってあり、親の獅子の口から、水が出る仕組みになっています。
文で表現するのは、難しいので、百聞は一見に如かずですね。
金製品が多いのも、シルクロードの特徴。遊牧民(ソグド系?)は金を好んで使ったといいます。この竜は、その金製ですが、デザインは、躍動感あふれるすばらしいもの。前足で、体を支え、逆立ちしているようにも見えます。金製品では、他にも鹿や、鳥をデザインしたものがすばらしい。龍の小さなものもあります。金製のお碗(これは、国宝)もまさにお宝。
銀鍍金鸚鵡鴛鴦文提梁壷 
(ぎんときんおうむえんおうもんていりょうこ)
工芸品の極致。1970年出土。金属製の取っ手付の壷だが、鸚鵡、鴛鴦(おしどり)、葡萄、石榴、唐草文様などが、所狭しと彫り込まれており、隙間は、独特の文様(ぶつぶつ)で埋め尽くされています。よくぞここまで作りこんだなという感じです。当時の工芸技術の高さを示すものです。
法隆寺のお宝の水滴などとも、デザインは似ています。
獅子像 正面ロビーに、大きな獅子像が展示されています(これだけ写真があります)。これは、唐の時代権勢を振るった側天武后の母の陵から出土したもので、巨大です。この他にも動物の石像がたくさん見つかっていますが、そのほとんどは、碑林博物館の方にあります。一説によれば、陝西歴史博物館ができた時に、重すぎて運ぶのを止めたといいますが。
八曲長杯 水晶を削って作った杯で、ペルシャの影響が見られます。正倉院に納められている杯にも通ずるもので、シルクロードを語る際には、かかせないものとして、挙げてみました。

やっぱり、実際に見てみないと本当のすばらしさは、わからないかもしれません。また、ここに挙げた以外にも、国宝がごろごろしています。ここの展示物は、時々、日本にも来ていますので、こまめに特別展に足を運ぶと、段々にカバーできるかもしれません。
博物館内の土産物屋で、カタログやら、唐三彩の人形やらを買いましたが、えらく店員に喜ばれたような気がします。本当は、もっと値切らなくてはいけなかったようです。日本では、ミュージーアムショップで、普通値ぎりませんよね。

博物館を見終わったところで、オーダーメイドスケジュールを終了し、本来の予定に戻って、ホテルでの昼食。
相変わらず、たっぷりおいしい料理が出て来るのですが、ここでは、いろいろ頼みもしないのに、お酒やらおつまみやらがでてきます。食事も終わりに近づいたころ、若いお譲さんが、サービスで出たものをお土産に勧めにきました。お嬢さんは、日本語を学ぶ学生だが、春休みでバイト中とのことです。別にお嬢さんに勧められたからではないのですが、薬草入りの焼酎と、甘い干し梅干がおいしく、値段も手ごろだったので、買いました。
正直言って、相場はわからないのですが、忙しい旅の場合、いいと思ったら、懐が許せば買ってしまった方がいいというのが私の持論です(ずうっといるなら、じっくり探した方がもちろんいいですが)。
ここでのお土産は、帰国してから大受けで、特に薬草入りの焼酎は、中身だけ入れ替えて、今も、いただいています。マシュマロみたいなデザートも勧められたのですが、ちょっと甘すぎるので買うのはやめました。ただこれも西安の名物だそうです。
ここで、日本語可のジャさんと再会し、西安の空港まで送ってもらい、いよいよ敦煌に、向かいます。

西安から、敦煌までは、ちっちゃなジェット機でしたが(帰って調べたら、Dornier 328というドイツ製の飛行機で、36人乗りであることがわかった)、満員の中、日本人が、2割くらいいて、皆、高そうなカメラをもっていたり、学者風で、相応の年の割に英語が流暢だったり、その辺の観光地とは違った雰囲気を醸し出していて、ナイスです。ハイソとでも言うのでしょうか(こちらは、連泊が一回もない超多忙旅行ですが)。この手の飛行機は(シカゴ時代もよく乗りましたが)、席が、通路を挟んで3列であり(1+2)、バランスが悪くならないかと心配になったりします。

直行便かと思いきや、蘭州で、一度降りて、再搭乗ということになりました。敦煌の先、ウルムチまで行く便でした。昔は、途中で止まる時は、そのまま飛行機内で待機していたことも多かったような気もするのですが、最近は、すべて一旦下ろされるので、面倒くさいです。蘭州は、黄河とシルクロードが交わるところにあり、ここから、西が河西回廊(黄河の西の道)と呼ばれます。
景色は、なかなかで、うっすらと雪をかぶった山をすぎると、棚田の山並みが現われたりしました。
トランジットのために降りた蘭州の飛行場は、こじんまりとしていて、コメントなし。ただ、途中の景色は、乾ききった山だったりして、もう砂漠地帯にはいったんだと実感させるものであったことは確かです。

機内食もでましたが、Moslem(清真)シールがはってあり、ヴェジタリアン向けの簡素なものです。蘭州で、かなり乗客が入れ替わり、日本人比率が8割くらいになりました。ほとんどが、おじいちゃんおばあちゃんで、私より若いのは、学生風の2人だけでした。敦煌が近づくと、結構高そうな雪山の上を飛んだりもしました。祁連山脈だったのでしょうか。

敦煌に着くころには、陽が落ちてきて、ちょうど敦煌の空港内を歩いている頃が、SUNSETだったので、写真を撮りました。砂漠の真ん中にある空港で、どんなところに来てしまったんだろうという感じになります。ちなみにこの空港は、2002年8月にできた新しいものだそうです。

空港では、インテリ風のめがねをかけたちんちくりん(失礼!)の女性ガイドが迎えてくれました。エンさんという、蘭州で、日本語を勉強したまじめな人で、一生懸命私の希望を聞いてくれて、翌日には、子供のために英語の絵本なども買っていました(教育ママでもあるのでしょう)。漢民族のハングリー精神の残る人は、本当にすごいです。
エンさんの説明によると、敦煌は、”栄える+大きい”という意味で、オアシスは、敦煌の面積の4.5%。米はとれず、小麦、とうもろこし、綿、果物(リンゴ、杏、メイザンナツメ)、敦煌ラーメンが名物だそうです。人口は、18万人ですが、ほとんどが、農村に住んでいて、街に住んでいるのは、3万人ぐらいとのことです。

夕食時間になっていたので(チベットの時、経験したように、中国には時差がないので、西に行くと夜が更けるのがやたら遅いです(朝はなかなか明けません))、街で一番といわれるホテル(太陽大飯店)のレストランへ直行しました。

中華料理は、どこでもおいしいのですが、ビールが地方によっていろいろあって面白いです。今晩のビールは、何故か”緑色凶暴”というかなりなりRadicalな名前。味は普通でしたが。レストランには、次々地元の人が来て、盛り上がっています。聞くところによると、街の中に住んでいる人は、ほとんど、顔見知りとのことです。また、お酒好きの人も多く、否が応でも盛り上がるとのことです。飲みすぎの人もいて、田舎のにおいがプンプンです。
料理の方は、四川に近いと思いましたが、かなりいけます。特に敦煌ラーメンらしきもの、コーンのとんがらし上げ(”カール”風)などは、最高でした。

泊まったホテルは、敦煌賓館という、当地では有名な老舗ホテルでしたが、エレベーターが動くたびに、がたがたうるさいのと、風呂のお湯が出るのに、10分以上かかるのには、閉口。リークァンユーさん、江沢民さん、胡錦濤さんなども泊まったようですが、かなりガタが来ています。たぶんどこのホテルも似たような状況で、今年は、沙州大酒店がリノベーションのため、クローズとなったということでした。4星以上のホテルが3つしかない中で、その中のひとつが改装のためクローズしており、シーズン中は、まともなホテルにとまるのはたいへんのようでした。ロビーは、反弾琵琶伎楽天の像と天井が立派でしたが(敦煌の石窟壁画風)、客が少なく、さっさと灯りが消されてしまい、写真は、撮れませんでした。外壁にある敦煌壁画を題材にしたタイル画も美しかったです。ホテルの前には、大きなゲートもあり、確かにしっかりしたホテルではあるようです。

TVはちゃんと見れるので、CCTVの英語のチャンネルを見てました。討論会の番組でしたが、皆、アメリカに留学していた人で、流暢な英語をしゃべるし、議論も論理的です。残念ながら、日本の討論番組とのレベルの差を感じます。日本は、コマーシャリズムに走りすぎて、面白さだけを追求せざるを得ない状況になっているのでしょう。人材レベルも、どんどん中国に抜かれていくように思います。

敦煌が、他の地区と違うのは、西欧人が、少なく、日本人比率がやたら高いことです。ホテル内に、富士レストランという日本食屋もあるようですが、行かなかったので、味は不明です。西安と桂林にも店があるようですが。
ということで、いよいよ、シルクロードの旅も、佳境にはいってきました。

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