西蔵七日  SEVEN DAYS IN TIBET

第四日 (Day 4)

敦煌は、甘粛省という結構貧しい地域の西端にあるオアシス都市で、漢の武帝のころには、軍事拠点として、すでに重要な都市になっていました。吐蕃(とばん)、西夏などに占領されたりしましたが、シルクロードの重要拠点として、滅びることはありませんでした。長安からの河西回廊は、敦煌までほとんど一本道ですが、ここから西は、天山山脈の北を行く天山北路と、天山山脈の南を行く天山南路、そして、タクラマカン砂漠の南を行く西域南道に枝分かれしていくのです。
朝の食事も簡素なもので、ひえか粟のおかゆとか、ラーメンとかといった状況です。外では、従業員が、ランニングをしています(朝の体操の一環なのでしょう)。

午前中は、鳴沙山に行くスケジュールでしたが、その前に朝の散歩をしました。全然危ない感じはしませんでしたが、エンさんの話によると、桂林からスリ団が流入し、たいへんだった時期があったそうです。
ホテル近くに敦煌博物館がありましたが、クローズ中。日中、開いているはずの時間に寄ったけれど、やはりクローズ中だったので、この時期よっぽど客がいないものと思われました。街にも、この時期、観光客風の人は、まったく見かけません。
その先にある、敦煌の人が、皆買い物をする沙州市場に行きました。まだ朝で、職員が、朝礼+体操をする姿が見れました。すがすがしい。仕事は、こうでなくっちゃ。中国では、職場で働くことに慣れていない人がまだ多く、教育指導のため、どこでもこの光景は、見られます。
その先には、敦煌の中心に当たる四つ角があって、その真中に、反弾琵琶伎楽天(はんだんびわぎがくてん)の像があります。莫高窟の壁画にある姿(一般公開は、されていない)ですが、ジミヘンを彷彿とさせます?

 鳴沙山・月牙泉



ということで、朝の散歩を終え、午前中は、鳴沙山(めいさざん)です。
ホテルから、車で行きますが、そんなに遠くありません。ラスベガスをドライブするとすぐ砂漠に出てしまう(今はずいぶん街も大きくなったみたいですが)のと似ていて、しばらく行くと、砂漠に向かう一本道に出ます。正面には、大きな砂漠の山が見えてきます。ここも、近時整備されたとのことで、街灯なども立派ですし、鳴沙山の入り口の門も、かなり立派です。この辺を一大観光地にしたいという腹なのでしょう。

門をくぐると、写真でよく見る、鋭い稜線を持った砂漠の三つの砂山が見えてきます。これは、感動です。特に朝一で行ったため(オフシーズンでもあり)、観光客は誰もいません。稜線のコントラストが美しいです。朝か夕方に来るのがいいそうです(シーズン中は暑いため、夕方の方が人気があるらしい)。観光客を待つ、駱駝達が暇そうにつながれています。Rich?に往復駱駝に乗って(往復60元)、月牙泉(げつがせん)に行くことにしましました。

まず駱駝への乗り方を教わりますが、完全にしゃがみ込んでいるるところに乗りますから、乗る時は、楽でいいのですが、後ろ足から立ち上がるので、心の準備をしていないとそこで、前に落ちてしまいます。後ろ足をクリヤーすると次は、前足を上げますので、油断していると今度は後ろに落ちてしまいます。ちなみに降りる時は、逆で、前足からしゃがむので、最後まで、気が抜けません。危ないので、駱駝の上での、写真撮影は止められました。

全然関係ないのですが、敦煌には、雪山駝掌(Snow Hill Camel's Paw)という、駱駝の足の料理があるそうですが、味わう機会はありませんでした。
毛もごわごわしていて、乗った時は、静電気で、びりっときました。それだけ、乾燥しているということなのでしょう。
歩き始めても、結構硬く、ごつごつゆれるので、乗り心地はあまりよくありません。でも、かつてのシルクロードを旅した人達の気持ちを理解するためにも是非、体験したいものです。出発するとすぐ数人のフォトグラファーが現れますが、これは、後から写真を売りつけようという魂胆です(記念に買いましたが)。
そこから、さらにしばらく行くと、貯水池のような池の脇を通って、月牙泉(げつがせん)に到着します。こちらには、草原の民が使うゲルのようなテントがありますが、駱駝の係員用です。
そこから、少し砂の上を歩いていきますが、砂がキュッキュッ鳴って、心地よいです。鳴沙山の名の由来です。手にとってみると、いろんな色の砂が混じっているのが、わかります。赤、黄、緑、白、黒の5色の砂です。ただ、やはり砂漠だけあって、埃っぽいです。

月牙泉は、この広大な砂漠の中で、何故か水を湛え続けている三日月形の泉で、相当昔(少なくとも漢の時代)からあったことがわかっています。幅が50メートル位、長さも、200メートル位の小さな泉です。湧き出る地下水と、そこに砂がかぶるのを防ぐ微妙な風向きのバランスが、この泉を維持できている秘密のようです。鳴沙山も、大きくは、その姿を変えていないようです。ただ、この泉も段々小さくなってはいるようです。彷徨える湖ロプノールのように干上がらないといいのですが。
薬泉という呼び名もあるそうですが、これは、中に住んでいる鉄背魚(てつはいぎょ)なる魚と、底に生えていると言われる七星草という草を食べると、長寿が得られるという伝説によるものだそうです。
6/6には、砂風呂が設けられ、リューマチ、腰痛、水虫に効くということで、大賑わいとのことでした。
月牙泉の脇には、楼閣がありますが、これは、再建されたもので、本物は、文化大革命の時に壊されてしまいました。昔の写真を見ると、楼閣は、ありません。

この楼閣を過ぎた裏山に、人が登った後が残る砂山があったので、砂山登りに挑戦しました。砂山への立ち入りは、保護のため制限されていますので、指示に従いましょう。エンさんは、80mくらいの砂山を登ったら尾根伝いに戻って、楼閣の手前で降りるようにとの指示をしたのですが、いざ登ると、途中で、にっちもさっちも行かなくなります。まだ、砂が冷たく、裸足になれなくて、靴に砂がどんどん入ってしまうし、砂がとてもやわらかく、もぐるので、えらいたいへんです。途中で、GIVE UPのサインを送ると、エンさんは笑ってましたので、上まで、たどり着けないと最初からわかっていたに違いありません。でも、2/3くらい(50mくらい?)は登ったので、いい景色が楽しめました。降りてから、もう一度見上げると、頂上まで、たどり着いている足跡は、ほとんどないことに気づきました。皆途中まで努力した様子はわかるのですが。

シーズン中は、上まで、木の階段が組まれるので、もっと簡単に登れますし、砂ぞりですべり降りることもできます。でも遊園地じゃないのですから、正攻法で臨みたいものですね。シルクロードを歩く気分も味わえますし。ただ、砂の温度が、75度くらいまで上がるそうなので、昼は止めておいたほうがいいかもしれません。

同じ道をまた駱駝で、テクテク戻りましたが、ついに、他の客には出会わず。係員20~30人に、客一人で、タクラマカン砂漠の端っこを占領しました。この時期は、もう少し、暖かい時間になってから来る人が多いのか、元々ここには、来ないのか?それとも、月の砂漠を見に来る人が多いのか。

出発時点で、駱駝に乗っている姿をとってもらった写真を購入し(1000円位だったと思います。たくさん撮っていたのに、一枚しか持っていなかったので、一番いいのを事前に選んでくれていたのでしょう)、一旦ホテルに戻りました。これは、砂山探索で、シャワーでもということのようでしたが、この時期は、涼しく、風もたいしたことはなかったので、シャワーを特にあびたいという感じではありませんでした。

 莫高窟



ホテルで休憩後、昨日の夜と同じレストランで、昼食。そしていよいよ莫高窟(ばっこうくつ)へ出発です。
莫高窟までは、市内から、車で、30分くらい。途中は、砂漠の中の一本道ですが、小さな山が砂漠の中にたくさん見えます。これは、現地の人のお墓だそうです。無数にあります。砂漠の中に、新しい建物が見えたので、聞くと、昨夜到着した飛行場とのこと。砂漠の真中にぽつんと作られています。
莫高窟が近づくと大泉河沿いの道となりその奥に、莫高窟の北区の石窟群が見えててきます。北区の石窟には、壁画等はなく、石窟に壁画を描いた画家達が寝泊りした場所と考えられています。256の窟が確認されていますが、一般には公開されていません。

莫高窟という名も、不思議な名前ですが、その由来については、諸説あるそうです。①高いところにある②元々”莫高”という名の村だった③莫は”無”を意味し、高いは、ここに石窟を造ることを始めたと言われる楽僔(らくそん)の修行のレベルが高いことを意味する等々。
これだけ見事な石窟が残ったのは、奇跡に近いラッキーとしか言い様がないのですが、①元々乾燥していた②仏教徒がこの地域を支配し続けたこと③途中、ほとんど忘れられていたことが、主な要因とのことでした。
壁画のパターンは、大きく分けて3つあるとのことです。①経変画(仏国浄土の世界、仏法が説かれる場所②本生図(ジャータカと言われ、釈迦が生まれる前の前世の物語)③飛天、菩薩類。

駐車場からは、正面に鳴沙山(砂山です)、左側に三つの頂を持った三危山(岩山です。ここから南東に伸びる祁連山脈の支脈になります)が、つながって見えます。莫高窟は、鳴沙山側の崖に掘られています。山には、大きなお墓も見えますが、西晋時代のものとのことです。鳴沙山の手前を流れる大泉河は、この時期は、まだ半分凍っています。ほとんど枯れ河に近いです。

莫高窟は、366年に楽僔(らくそん)というお坊さんが、この崖が朝日に光り輝くのを見て、千の仏が現われて仏の啓示を受けたと考え、崖に穴を掘り、籠って修行を始めたという言い伝えがあります。その後、法良というお坊さんの頃から、本格的な造営が始まっているとのことです。
今は、492窟(南区)が確認されており、壁画の長さは、全部並べると30kmにも及ぶそうです。面積にして、4.5平方㎞にも及ぶと言います。像の数だけでも、2,115もあるそうです。5世紀前半の北涼期から、15世紀の元の時代まで、千年くらい石窟は造られ続けたわけですので、信じられません。今公開されているのは、その内60窟位に過ぎません。中国の石窟では、莫高窟の他に、雲岡、龍門石窟が有名ですが、莫高窟が一番古いと考えられています。

古いのか新しいのかわからない仏塔を過ぎると、いよいよ莫高窟はもうすぐです。大きな楡の木や、回りのリンゴの木を見ながら、大泉河を渡ると入り口ですが、ここから奥は、係員とで一緒でないと入れません。しばらく待つ間、近くをぶらぶらして、よく写真で見る九層楼の前で、写真を撮ったり、石窟の外にもわずかに描かれている壁画などを見て、時間をつぶしました。石窟群は、皆鍵が掛けられていて、外から見ると牢獄のようです。スタインが訪れたころの石窟は、写真によるとむき出しになっていますので、この仰々しい扉は、石窟保護のため、後代に取り付けられたもののようです。

シーズンオフ故、ほとんど観光客がおらず、中国人が数人いる程度。ただ、石窟の中は、専門ガイド(研究員)付きでないと見れないので、空いているからといって、よりゆっくり見れるというわけでもありません。夏は、次から次と石窟の鍵が開けられるのかもしれませんが、この時期は、全ての窟で、開けて、見て、閉じてということで、フリーでは見れません。いいガイドに出会えるかという違いはありますが(私の場合、リュウさんというしっかりした方でした。シーズン中は、ガイドにありつくのも難しいということも聞きました)。ガイドさんによって、見せてくれる石窟も違うらしいので、行かれた方がいましたら、私の見た石窟と比べてみてください。

私の場合、昼食で隣の席だった人たちと結局合流し、15人くらいのグループで、見て回ることとなりました。メンバーは、広島から来たパック旅行のお年寄りのグループ(皆お元気で、文化遺産というよりも、拝む対象としての仏様そのものに興味あり)と、当地区に単身赴任中というおじさん1名で、気楽なメンバーでした。
ここも、中は、カメラやバッグ類は持ち込み禁止ですので(入り口の切符売り場に預けます)、文章のみとなりますが、想像力を働かせてそのすばらしい光景を思い浮かべていただければ幸いです(写真集はたくさん出ていますので、参考にしてください)。

まず、驚くのは、値段の高さです。エンさんの話によると年々上がっているそうで、通常料金(120元)で入れるもの以外の、所謂特別室は、120元から高いものは450元というとんでもない値段のものまであります。さすがに、ひとつの石窟で450元(約6,000円)は、文化財財の保護のためとは言ってもやりすぎではないかと思います。15人のグループで、行ったら、一気に9万円の収入(見る人にとっては支出)になるのですから。

特別窟の見学には(パック旅行で、最初から入っている場合は、別ですが)、チケット売り場で、別途お金を払って、領収書をもらっておく必要があります。私の場合、他のグループメンバーは、興味がなかったようで(ツアーだとこの辺が寂しい)、希望者が私だけだったのと、夕方ガイドさんの通勤バスが出てしまう時間が近づいていたことで、なかなかてこずりましたが、希望の3つの特別室を見ることができました。本当は、もっと見たいところでしたが、絶対はずせない3つを見れたので、悔いはありませんでした。220窟と285窟もすばらしいですが、各々200元とのことでした。特別窟については、鍵が二つあって、ガイドさん一人では、開けられないという念の入れようです。この特別窟を一人で、じっくり見ることができた人は、そんなにいないのではないでしょうか。シーズンオフならではの、大ラッキーでした。

石窟毎にコメントを載せます(観覧順)。とにかくすごいです。偶然が重なり、現代まで、残ったということですが、それを目の当たりにできるというのは、心底ラッキーだと思います。ほんの一部しか見ていないにもかかわらず、ここまで、すばらしい博物館は、見たことがないし、この世に他に、存在しないでしょう。

順番 石窟番号(見た順) 時代 コメント
16
一般窟
晩唐
(848~907)
莫高窟は、北区と南区に分かれるが、北区は(開放もされていない?)、壁画もなく、見所は、南区に集中する。その南区の北端にあるのが、この16窟。三層楼の一階に当たる。大型の中心須弥壇式石窟だが、壁画の多くは、西夏時代に描き改められたと考えられている。壇上の塑像は、清代の修復によるものと考えられている。顔が黒く、目はガラスで出来ている。この窟を造るのに、8年かかったという記録があるとのこと。
最初、暗くて戸惑い、よく見えなかったが、出る時になって、どこかの撮影隊が来て、明るく照らしてくれたので、よく見えた。なかなかきれいで、見事なものである。一番入り口に仁王像のような塑像があるが、できも悪くやや興ざめである。
17
一般窟
晩唐
(848~907)
16窟に訪れる目的の99%が、16窟に入る途中のトンネルの右側にある17窟にある。この17窟こそかの有名な敦煌文書が1900年に発見された石窟なのである(蔵経洞と呼ばれる)。井上靖の”敦煌”、または、角川映画の”敦煌”を見た人は、強く印象に残っているあの石窟である。
壁画が残る通路の右側にぽっかり穴が開けられておりその中に、敦煌の名僧である洪べんの像があり(一時365窟に移されていたものが、今は、17窟に戻されている)、その後ろに美しい壁画が描かれている。この小さなスペースで、1万点(一説によると5万冊)にものぼる、様々な文字で書かれた文書が積み重ねられているのが発見されたのである。この文書がなぜこのような形で、保存されたかは、不明であるが、小説”敦煌” に描かれたストーリーは必ずしも史実に即したものではないと考えられている。というのは、いろいろな状況を検討すると、この文書が保存されたのは、すでに西夏がこの地を支配した後とも考えられるからである。しかし、この部屋を見つけた人は王さんは、すごい。
この文書の発見により、シルクロードの当時の様子が、かなり解明された(敦煌学という新しい学問の分野までできた)とともに、この地への世界中の注目を集めるきっかけとなった発見である。
文書は、現在世界中にばらばらに散らばったが、その研究は、まだ続けられている。
洪べんの像の背景にある壁画には、2本の木(双樹)と2侍者(左が杖とショールも持つ侍女(男装をしている)で、右が団扇を持つ比丘)が描かれているが、その服装、表情から唐時代の絵であることがわかる。木にかけられたBAGなどは、まさにモダンで、これもまたよくできた壁画である。ストーリーの方が、有名になってしまったが、この壁画も小品ながらすごい。
328
一般窟
盛唐
(712~781)
唐最盛期に造られた石窟で、1仏、2比丘、4供養菩薩が安置される。
本尊は(高さ2.19m)、面長の特徴のある堂々とした男性的な顔をしていて迫力がある。衣の文も見事だ。ひげも特徴的。脇侍菩薩にも、ひげがあり、女性的な、顔をしているので、ちょっと異様。片一方の足を垂らし、もう一方の足を垂らした足の上に置くポーズをとっている。優雅なお姿である。上半身は、ほとんど裸だが、色のきれいなスカートをはいている。
2比丘は、写実的で、まさに仏に仕える者という落ち着いた表情をしており、見事な出来栄えである。後ろに8対の比丘が描かれており、十大弟子を表している。手前の部分は、西夏時代の作とのこと。
供養菩薩像は当初左右対であったが、アメリカ人のウォーナーが1924年に左側の菩薩をアメリカに持ち帰り、現在ハーバード大学に展示されているという。ガイドさんが憎しみをこめて、この事実を説明する他、ご丁寧に、案内板にも紹介されている。ウォーナーは、多量の壁画を、化学薬品を染みこませたゼラチンを使って、剥がしていったことでも悪名高く、NHKの旧シルクロードでも、その悪行が説明されている。ハーバード大学が、この像を返還したら、この石窟のすばらしさが増すのだが。その他の部分がほぼ完全に残っているだけに残念である。
奈良の法隆寺には、ウォーナーの功績?を称えたウォーナー塔があるが(ウォーナーリストにより、日本の文化財が第二次世界大戦時、戦火に巻き込まれなかったということなのでだが)、もしかすると勘違いによるものかもしれない(真実はウォーナーさんに聞いてみないとわからない)。
427
一般窟

(581~618)
隋時代を代表する、隋時代最大規模の石窟。手前の前室は、宋時代(年代の記録が残っている)のもので木造建築。四天王+仁王(力士)の巨像がある。奥の主室が隋代のもので、中央に方柱が立つ方柱窟である。仏三尊が柱の四方にある。三尊は、過去、現在、未来を表す。元々大きいが(5m位)、特に頭が大きく、全体的にのっぺりした感じ。色もカラフルな印象を受ける。隋の時代の特徴で、時の隋の勢いが感じられる。
三尊像(三世像)も隋の特徴とされ、遣隋使、遣唐使によって、日本にもたらされたのであろう。法隆寺の金堂の像も、三尊像である。飛天達も、まさに中国からの直輸入だ。
顔には、ひげがある。菩薩にも、ひげが描かれているケースがあるが、菩薩の性別は、男だったり、女だったり、中性だったりするそうである。衣には、連珠文(丸い穴を連ねて模様を描くもの)が描かれているものが多いが、これも、西域文化の特徴とのことである。
壁には、金箔の一万仏が描かれており、当時の信仰の厚さが窺える。
428
一般窟
北周
(557~581)
中に入ったところの、両脇の壁に、にスダーナ太子の本生譚(北側)、サッタ王子の本生譚(南側)が、上中下と三段に渡って、描かれている。物語は、場面ごとに描かれ、見る方は、S字状に物語を追っていくことになる。虎に自分の体を与えた話(捨身飼虎)は有名だが、前世の釈迦のお話である。法隆寺の玉虫の厨子にも、この話は描かれている。その上には、千仏の絵、下には、多くの僧侶の絵もあり、にぎやかである。
飛天が飛び交っているが、当時は、男性の飛天とのことである。元々は、肌色をしていたらしいが、鉛が変色し、黒くなっている。その下に供養菩薩も描かれているが、飛天と同じ作風である。
この石窟も、中央に柱がある方柱窟で、その柱の四方に、お釈迦様がいる構造。柱の周りが回廊のようになっており、右回りに3周するとご利益があるということで、真っ暗な中、老若男女いっしょに、ぐるぐる回った。お釈迦様の顔は、目が下方にあり、ちょっと異民族的で、漫画チックだ。
回廊の天井にも、きめ細かく、装飾がなされている。梁などが描かれ、その間に、人を象った模様(人字坡文様と呼ばれる)や、蓮の花、草花、鹿、鳥、猿などがみっちりと描かれていて、楽しい。
中央の仏様は、古いもので、西域の少数民族の顔をしている。
259
一般窟
北魏
(439~535)
二つの仏様が並んでいるが、釈迦仏と多宝仏とのことであった。過去と現在を表している。表情には、張りがあり、体も堂々としている。赤い衣をまとっており、片方の足を、もう片方の足に乗せるポーズである。
この窟で有名なのは、北壁の上の龕(ガン)内にある禅定仏像である。高さ1m足らずのものだが、穏やかな表情で、色も残っている。座禅の印を結んでおり、落ち着いた雰囲気だ。”東方のモナリザ”と呼ぶ人もいるらしい。顔は異国風でもある鮮卑族という説明であった。
249
一般窟
西魏
(535~556)
一般窟の中では、一番印象に残った窟。入場券の図柄にも使用されていた。中に柱のない最も古い伏斗形窟と言われている。この型の石窟は(天井が斗-ます-を伏せたような形をしており、天井全体に壁画が描かれる)、何と言っても、天井画がすばらしい。下の方には、狩猟などの人間界の様子が描かれている。着色されていない、猪の親子(すばらしいタッチ)等も描かれている。
天上には、世にも不思議な世界が描かれている。中央の大海に四つ目の阿修羅(鬼神)が立ち、両手に月と太陽を持ち上げている(手も4本ある)。その後ろには、須弥山があり、風神、雷神、雨師、霹電(へきでん)がいる。天に昇る仙人もいる。須弥山の奥には、西域風の天宮が見える。
やはり黒く変色した飛天が飛ぶというよりは、アクロバットのように飛び跳ね、その周りに9つの頭をもった奇怪な怪物もいる。中国の神話伝説の女神である西王母もいる。羽が生えた力士像や、朱雀や烏獲(うかく)や、玄武(げんぶ)や、百戯(曲芸している人)もいる。
インド神話、中国神話、仏教が、見事に(ぐちゃぐちゃに?)、この天井一杯に描かれており、すばらしいの一言である。躍動感があるため、まさに、東西の神々の饗宴という感じ。仏教と古代中国の思想(道教ともつながる)が、一体化していった証左かもしれない。
96
一般窟
初唐
(618~712)
莫高窟の写真で、必ず出てくる九層楼の中におわす、高さ34.5mの大仏様(弥勒大仏)。「北大仏」とも呼ばれる。奈良の大仏の倍以上の大きさだ。元は、則天武后の命で、695年に作られたとのことだが、その後改修が重ねられた。元は、4層楼だったが、5層楼になり、民国時代に9層楼になったという。
まさか、この石窟の中に、こんな大きな仏様がいるなど想像もつかないし、通常は、下から見上げるしかないので、ますますその大きさを体感することになる。同行の、団体の高齢のお客様の受けは一番よかったようだ。仏様は、弥勒仏で、中国で3番目に大きい大仏とのことである。もちろん、莫高窟最大の石窟で、象徴的な存在である。
ちょうど顔の部分に光が入るようになっており、また、屋上が屋根つきの吹き抜けになっているので、顔は比較的見えるが、脇の方などは、暗くて見えにくい。特別な人は、屋根に登って正面から拝むことができるそうである。則天武后がモデルというのだが、よくわからない。
製法は、まず大体の大仏の形を彫り(山を削り)、その上に塑土を盛り上げてあるとのこと。
足元は、床が、何段かに掘られているが、発掘調査で、元の床は、今より1.5mくらい下であったことや、きれいな文様の敷石が並べられていた様子がわかる。
130
一般窟
盛唐
(712~781)
これも、高さ26mもある大仏様。「南大仏」とも呼ばれる。やはり弥勒仏で、製法も、96窟と同様である。作るのに、30年近くかかったことがわかっている。こちらは、右手と腹部が補修された他は、ほとんど当時のままである。暗くて見難いが(特に上の方が見にくい)、壁画も三層に渡る見事なもので、大きさのみならず、質の高さでも勝負している。大仏の両脇に描かれた菩薩は、大きさも大仏並みの巨大なものである。また、描かれた飛天は、莫高窟最大のものとのことである。
南壁には、この窟を寄進した夫人やその娘、侍女の絵が残る。典型的な唐代の美女たちだ。当時の支配階級にいた大金持ちであったに違いない。莫高窟には、寄進した人達の像と名前が描かれているものも多かった。信心深く、お金もあった人達だけが、石窟を作ることができたのだろう。
また、壁画の下に、さらに壁画があり、壁画が3層に描かれていたことがわかる。
10 148
一般窟
盛唐
(712~781)
莫高窟の南の端にあり、巨大な涅槃仏が納められている。体長14.4m(大きさは、莫高窟で2番目)。やはり、石を掘り出して、塑土を盛る製法である。後ろに、悲しむ弟子たちの塑像がたくさん並んでいるが、清時代に補修されたものという。表情が様々で、興味深い。その後ろ、および両脇の壁の壁画もまた見事なもので、涅槃経変、弥勒経変などのテーマである(阿弥陀様が西方で、薬師様が東方におわすとのこと)。水色の池の上に台があり、浄土の様子が細かく、美しく、壮大に描かれている。当時の楽器を演奏する姿も描かれており、浄土っていいなと思わせる図である。見事としか言いようがない。
手前に仁王像があるが、これも清時代の修復によるもの。
11 45
特別窟
盛唐
(712~781)
ここから、3窟は、特別窟で、別料金。毎年、料金は、鰻登りだそうで、45窟は、200元(約2,700円)。時間とお金の関係で行かなかった217窟が100元、220窟が200元、285窟が200元、320窟が100元。そして、何と465窟は、450元とのことである。恐るべし。私の場合、まさに一人で、じっくり見れたので、お金の払い甲斐は、あった方でしょう。
45窟は、盛唐時代の代表的な塑像の傑作が並んでおり、莫高窟を代表する窟。敦煌の塑像の紹介の時は、まず最初に出てくる。特にやや腰をひねった2人の脇侍菩薩(高さ1.85m)は、平山先生の恋人とガイドは紹介していたが、美しい。頭に宝冠を被り、髷を高く結っている。顔はふっくらしているが、愛らしい。
本尊は、釈迦如来で、ふっくらしていて、馴染み易い姿をされている。その両脇に、阿南、迦葉、前述の2人の脇侍菩薩、2天王と7体の塑像が並び、その背景の壁画にも仏の弟子たちが並ぶ(阿南、比丘の塑像と合わせて、仏の10大弟子になっている。2天王の足元には、邪鬼が惨めに踏みつけられている。その鎧も、極めてリアルだ。阿南の像は、妙に写実的で、表情は悟り切った様子をしている。迦葉の表情はやや強めだが、これも写実的。
脇の壁も、法華経の説話を基にした壁画(阿弥陀仏を中心に、西方浄土の様子が、美しく描かれている)や、当時のシルクロードの様子を描いた壁画で、埋め尽くされており、まさにタイムカプセルと呼ぶにふさわしい窟である。完璧とはこのことを言うのか。
12 57
特別窟
初唐
(618~712)
この特別室150元也(約2,000円)。莫高窟一と言われる美しい菩薩で有名だが(美人窟とも呼ばれる)、この菩薩は、向かって左側の壁に描かれている。正面は、仏と比丘、菩薩像があるが、ほとんどこの菩薩に主役の座を奪われている。脇侍菩薩(きょうじぼさつまたは、わきじぼさつ)と呼ばれる。
この菩薩は、首をやや左に傾け、うっすらと笑みを浮かべている。当ホームページの”みやげ物コーナー”に、本菩薩の模写のお土産の写真を載せているが、とても、1300年前のものとは思えない壁画である。右ほほにやや染みのようなものがある他は、ほとんど完全に残っており、その周りの像が変色してしまっている中、輝いている(三尊像の左におわす菩薩であり、中央と右の菩薩の顔は、黒く変色してしまっている)。宝冠の装飾は、盛り上がっており、見事で、首や、胸や、帯の装飾とともに、今にもはがれてとれてしまいそうで、怖いぐらいである。攊粉堆金(れきふんたいきん)という技法とのことである。頬と唇に、紅がさしてあるように見える。ショールやスカートなども細かく描かれていてすばらしい。
意外と小さめで、珍しくガラス越しに見ることになるので、大人数だとじっくり見れないかもしれない。私は、一人で、じっくり見れてラッキーだった。
奈良の法隆寺の、燃えてしまった脇侍菩薩も、冠、表情、仕草などかなり似ている。敦煌と奈良との距離を考えればそっくりと言ってもいい。インドのアジャンター石窟の菩薩もまた似ている。こちらは、装飾品や服装はやや異なるが、仕草・表情などは、極めてよく似ている。今でも、これらの仏さまをすべて見るのはたいへん(法隆寺のものは、今は模写しかないが)なのに、遠い昔に、どんな形で、伝わったのか、まさに浪漫とはこのことを言うのだろう。描かれている天女も、躍動感あふれるもので、法隆寺のものにそっくりだ。
他にも、すばらしい説法図が残るが、残念ながら変色しているため、引き立て役に回っている。
13 275
特別室
(北凉
421~439)
私の見た最後の石窟(150元也)は、莫高窟の中でも、最も古い時代に作られたもので、何といっても、中央にでんと構える交脚弥勒菩薩像が有名である。脚をX字形に組んでいる(日本では、見たことがないが、ガンダーラ仏には、同様のものがある)。
高さが、3.34mあり、結構大きい。腰掛けて、足を交差させ、独特のポーズを取っている。表情も、漢民族のものとは、かなり異なり、西方系の顔立ちと言われている。ひだの入ったスカートを纏い、頭には、三珠宝冠を頂いている。両脇に、獅子を従えているが、獅子に対し、説法している姿だそうだ。背もたれ(後はい)があるが、これも西域の文化の影響を受けている。
壁画も見事で、早くも飛天が舞っている。ただ、この頃の飛天は、優雅に舞うというよりも、ズボンをはいて、ただ浮遊している感じである。色も、顔などの縁の部分が、隈取りのように黒っぽく変色している、。飛天の下では、楽器を奏でる神々も見え、独特の、夢の世界を築きあげている。脇侍菩薩は、ここでは塑像ではなく、壁面に描かれている。
左右の壁の上方にも、龕(がん)に、小交脚弥勒菩薩が座し、その下に、本生図の様々な場面が描かれている。その上は、千仏の続く天井となっている。この窟もはずせない窟ではないか(この調子で行くと全部見なくてはならなくなってしまうが)。

大満足の石窟めぐりの後は、入り口近くの土産物屋で、カタログ購入(もうスーツケースの重さが20kgを超えていたので、以降、買い物は、かなり控えめにしました)。このカタログは、案内してくれたリュウ研究員も執筆陣にいるようで、強く勧められました(日本語で、写真もきれい)。少しまけてくれました。
その他にも、いろいろ勧められたのですが、第57窟の菩薩を薄い絹布に描いたものを買いました。これも、ひじょうに気に入っていて、机の正面に飾ってありますが、もっと大きいのを買ってくればよかったと思ったりしています。絵を書いた開国さんがいて、握手をして、店を後にしました。
同時に、店もクローズで、ガイドさん、開国さん、店員さん等全員、ミニバスに乗って、我々の車と同時に莫高窟を後にしました。

 白馬塔



日の入りまで、まだ時間があったので(何度も言うようですが、北京時間なので、朝は遅いし、夜も遅いのです)、白馬塔に寄ってもらいました。
白馬塔は、4世紀に鳩摩羅什が、インドから東に向かう途中、敦煌に立ち寄り、その際、経典を積んでいた白馬が亡くなったため、その馬を弔うために386年に建てた塔といわれています。高さが12mとのことです。エンさんによると、この地区が昔の敦煌の中心で、今の敦煌は、清時代以降とのことでした。今は、ポプラ並み木に囲まれた寒村になっていて、昔の栄華の跡形もありません。故城を畑に作り変えてしまったということなのでしょう。

行くと、また、係員も含めて、誰もいません。門も閉まっています。エンさんは、この管理人(どうもこの塔の敷地の所有者でもあるらしい)を知っていて、塔の向かいにある、この村唯一の豪邸に住んでいるとのこと。訪れると、喜んで、入場券を発券して(15元)、中に入れてくれました。
廊下を行くと、言い伝えを描いた壁画があり、その奥に白馬塔があります。白馬塔自体は、それほど印象深いものではなく、言い伝え自体が、重要なのでしょう。
塔が九層なのは、仏教で、縁起がいいとか、馬が9歳だったとか、いろんな説があるそうです。現在の塔は、明時代に建てられたものと考えられていますがよくわからないそうです。清代の修復の跡もあるそうです。文革の時代は、紅星塔とも呼ばれていたようです。紅と白では、全く逆です。

白馬塔から出ると、先ほど入場券を売ってくれたオーナー兼管理人夫婦が、リヤカー2台で、土産物屋をオープンしていました(私一人のために)。すごい根性です。何も買いませんでしたが、ニコニコして、さっさとリヤカーを片付けていきました。

白馬塔から比較的近い、街に戻る途中の道沿いで、史跡のようなものを整備中でした。帰ってから調べてみると、沙州故城遺址と呼ばれているようで、この辺が、かつての敦煌のだったということになっているようです。

ここから、定番の絹の絨毯工場に行きました。見世物とはわかっていても、勉強にはなりますね。亜細亜では、ろうけつ染めや、銀・錫細工や、宝石加工や、いろんな物を見たけど、工芸とは何ぞやということが、実際見ると初めてわかってきます。絹の絨毯は、縦糸が綿糸、横糸が絹糸とのことですが、縦糸は、日本で見るように奥方向に張られるのではなく、上方向に張られています。

ここでは、主に小さいものを作っているようですが、手間のかかる様子はよくわかります(それが先方の狙いなのですが)。高いのから、お土産版まで、たくさん売っていますが、一番安い電話台程度の敷物を買いました。でっかいのは、それは立派ですが、値段が高く、物を見極める力のない私は、ちょっと買えません。置く場所も、飾る場所もありません。
隣接して、夜光杯を売っている店があり、そこで、そこそこのを買いました。夜光杯も、ピンキリなのですが、要は気に入ったものを買うということかと思います。夜光杯は、祁連山脈で採れた玉を、ろくろのようなもので、削って磨いて作りますが、素材と手間のかけ方で、出来が違っています。基本的には、灯りに照らして、薄く、きれいな色をしているのを選ぶのがポイントです。玉の、追加セールスがあり、断ったのですが、結局値切った端数分、このキーホールダー風の玉に化けてしまいました。値段的には、百円弱の話なのですが。

今日のスケジュールは、まだあります。
また、例のレストランで、またまた豪華な食事の後(今回は、日本人のOL風二人組がいました)、敦煌駅に出発です。
敦煌駅といっても、実はかつては、柳園という名前だったものを無理やり敦煌という名の駅に変えたもので(2000年7月)、相当遠いです(2時間位?130km?)。柳園の名は、タマリスク(紅柳)がたくさん生えていたことから名づけられたとのことでした。途中、小さな村は、いくつか通りますが、見るべきものは、ありません。夜だったので、星空はきれいでしたが。

駅に着いてから、切符を手に入れ(敦煌からトルファンまで228元のようでした)、待合室で時間をつぶしましたが、壁画や、地図などが飾ってあり興味深かったです。。小さな映画館(電影)も併設されていて、結構人が入っています。現地の人が、たくさんグループでいて、トランプなどをしながら、時間をそれぞれつぶしています。2005/10に新しい敦煌駅ができると言っていましたので、こののどかな感じの駅も忘れられていくのかもしれません。

私が、乗ったのは、T197便で、23:16分敦煌発、07:07トルファン着でした。軟臥車ということで、一両しかない最高級寝台車両です。その他に、硬臥車(2等寝台)や、普通の乗り合い車両があるようです(中国悠々紀行によると、本列車の編成は、東風11型ディーゼル機関車+①郵便車+②~⑥硬座車(@118人)+⑦食堂車+⑧軟臥車(@36人)+⑨~⑯硬臥車(@66人)+⑰空調車+⑱荷物車とのこと)。
時間になると、荷物チェックを受け、ホームに出ます。ホームといっても、オープンスカイで、この時期相当寒いです。でっかいディーゼル機関車に引かれた車両が入ってきますが、はっきり言ってどこで乗ったらいいかわかりにくいです(ガイドがいなかったら、かなりとまどったでしょう)。ようやくわかって乗ると、切符を取り上げられ、その代わりプラスチック製の番号札を渡されます。降り漏れのないような配慮のようですがちょっと変わったシステムです。

車両内は、2階寝台車で、4人で一部屋です。どんな人がいっしょになるか心配だったのですが、30代の男3人組でした。聞くと、香港の金融機関に勤める同僚とのことで、4人で来たが、3人分しか、軟臥車はとれず、1人は硬臥車になったということです。私のせいで、予約を取り損ねたのかもしれません。そういえば、2階ベッドへのはしごがなく、苦労してよじ登っていましたが、これも、不思議なシステムでした。
夜も遅いので、早々に眠りにつきました。

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