西蔵七日  SEVEN DAYS IN TIBET

第五日 (Day 5)

朝、車掌がドアをたたく音で、起こされました。まだ外は、真っ暗。到着予定時刻まで、1時間近くありました。乗り心地は悪くなかったのですが(スピードも相当出ていた)、寝台車などそう乗ったことはありませんから(学生時代、博多から東京まで乗って以来?)、さすがに、熟睡感はありません。昨夜、乗車時にもらったプラスティックカードが回収され、また切符が戻ってきました。
香港3人組も、トルファンまでだったらしく、いっしょに身支度を始めます。トイレ(停車中使用不可の旧式です)もあるし、洗面所(ほとんどステンレス製の流し)もありますが、日本のほどゴージャスではなく、30年ほど前の日本の寝台車というところでしょうか。

コンパートメントの中には、お茶と小さなテーブルがあります。そこに、この列車の運行表もありましたが、鄭州発ウルムチ行きで、鄭州を前々日の19時18分に発ち、敦煌を前日の23時16分に発ち、ウルムチには、この後、9時14分に到着するようです。全部で、1日+14時間の行程です。
トルファン駅を出ると、まだ真っ暗な中、3人組が迎えてくれました。トルファンは、中国一暑い街ですが(火州と呼ばれています)、この時期、夜明前には、そんな印象は全くあてはまりません。単なる大きな田舎の駅です。一人がベテランガイドの李(リー)さん、一人が新米見習い中の王さん、一人がドライバー(コーさん)でした。
彼らは、ウルムチベースで、今日の丑三つ時にウルムチを出発、私一人を案内するために、今晩トルファンに一緒に泊まり、明日、いっしょにウルムチに移動というわけです。何と贅沢なんでしょう。亜細亜ならではです。
ちなみに、李さんは、大連で、日本語を学んだ、ガイド暦10年のベテランで、日本も北海道以外ほとんど行ったことがあるとのことでした。日本へのビザもなかなか取れなかった時代に、なかなか大した人なのかもしれません。

駅の近くは、暗いせいもありますが、かなり雑然として、整備は遅れている感じでした。街までは、まっすぐな舗装道路があり立派でしたが、やはりここ数年で、整備されたようです。トルファンの街に向かい、段々陽が上ってきた頃に、ホテルに到着しました。8時くらいになっていましたが、街には、まだほとんど人影がありません。トルファンでは、北京と時差はないものの、実質的には、2時間遅れで行動しているとのことでした。つまり、通常10時営業開始になります。ウルムチになると、逆に北京時間に忠実に動くということで、面白いなと思いました。ウルムチの方は、中央の意図が強く働き、トルファン辺りは、勝手にやらせているということなのでしょう。夏は、とんでもなく暑いので、午後の出勤時間は、午後5時だそうです。

ここで、車で、李さんが聞かせてくれた話をひとつ。新疆ウィグル自治区に使われてい”疆”という字。あまり見たことがありませんが、実は、この地区の地理から来ているというのです。偏の方は、弓(戦い)でこの地域を制したという意味。造りの方は、三本の横棒が、アルタイ、天山、クンルン山脈を表し、間の二つの”田”の字が、タリム、ジュンガル盆地を表しているというのです。もっともらしいではありませんか。本当かどうかは知りませんが、確かに、ここでしかお目にかからない文字です(これについては、帰ってから漢和辞典で調べましたが、事実は、偏の『土』が意味を表し、造りの『田』と『田』の間の横棒は、境界を表し、結局土地の境界という意味のようです)。

トルファンは、現在ウィグル人が中心で、イスラム教が主流になっていますが、元々は、仏教が盛んだった街で、11世紀にウィグル人が流入してから、イスラム教が主流になりました。人口は70万人もいるとのことですが、8割が農業に従事しています。葡萄、綿などが主な産物です。観光も重要な産業です。5-6年前は、4割くらいが日本人観光客だったものが、今は、中国、香港、韓国人が主流となってきたとのことでした。空港がないため、ウルムチ経由で入る人が多いようです。街を歩くだけでも、いろんな人がいて面白いですし、外国人にも慣れているようで、小さな子供に、”Hello!!"と呼びかけられました。

さて、ホテルの方は、中も外観も、西域っぽいデザインですが、隣は、もろにモスクのようで、かなり異国情緒があります。ホテルの前は、葡萄棚がずっと続いているのですが、この時期は、葡萄もなく、ただの、鉄骨のアーケードになっています。ちょっと仮眠をしてから、ホテルで、朝食をとり、いざ出発です。同行ガイドも、一休みしたようです。

 火焔山



まずは、隋・唐の時代に、かつての高昌国があった高昌故城に向かいますが、そこまで、ゴビを突っ走ります。ちなみにゴビは、固有名詞ではなく、硬い所というような意味で、ごつごつした荒地のことを言います。このあたりは、天然ガスが取れるので、その煙突や、石油をくみ上げる機械(所謂油田)が見えます。ゴビの中に小山のようなものが、多数見えますが、これは、カレーズという地下用水路の穴がある所です。家の近くにドームのように造られているのは、お墓だそうです。

そうこうしている内に、火焔山が見えてきました。高い山ではありませんが(標高851m)、西遊記の舞台になるのはわかる赤い、炎のような異様な姿をした山です。ウィグル語では、”赤い山”という意味だそうです。確かに、赤いしわくちゃの山肌が、見渡す限り続いています。夏の50度近い中で、これを見れば、まさに炎の山に見えることでしょう。昔降った雨が、この異様な山肌の皺を形作ったようです。この辺りは、海抜ゼロメートル地帯で、とんでもない暑さになるところです。南のアイデン湖は、海抜マイナス154mとのことです。ネバダのデスバレーといっしょかもしれません。最高温度は、83度を記録したそうです。ほとんど考えられません。この火を消した孫悟空は偉い!(鉄扇公主から芭蕉扇をどうにか奪って、49回あおいで、消しました。)
アンテナが立っている辺りが、最高標高地点とのことで、車から降りて写真も撮りました。

 高昌故城



火焔山を抜けると、とある村に着きますが、この辺の家は、四角の穴の開いた部屋を、2階に持っています。これは、乾燥倉という、当地名産である葡萄を干すための部屋とのことで、シーズンには、この部屋に葡萄を干して、干し葡萄を作るとのことです。葡萄というのは、世界で350種類もあり、暑くて乾燥した気候がよく、とっても甘い葡萄がたくさんとれるそうです。すっかりウィグル人の村で、何かすごい所に来てしまったなという感覚にとらわれます。この村の隣に、高昌故城がありました。高昌故城の前は、立派なモスクです。

高昌国は、元々紀元前2世紀の前漢時代、李広礼(リコウレイ)という大将軍が、屯田兵を使って、開拓を始めたのが、最初とのことです。屯田制というのは、普通は、農業に従事し、軍事訓練を受け、いざとなったら、兵隊になるシステムのことを言います。その後、街は、西域の要衝として、発展を続け、唐時代には、人口3万7千人程度だったという記録が残っているそうです。数千人の僧侶がいたと伝えられています。

高昌故城に入ると、見渡す限りの遺跡です。1.5km四方とのことですが、遠くに城壁が見えます。長安を模して作られ、外城、内城、宮城の三つの部分にわけられていたとのことです。ここは、前涼(4世紀)、北涼(匈奴系、5世紀)、柔然(モンゴル系、5世紀)、麹氏高昌国、吐番(チベット)、西ウィグル帝国と、1,000年間、国都だったところです。元の時代に、破壊されました。遠くに城壁が見え、かなり大きな街であったことがわかります。全て、破壊されたり風化してしまっていますが、仏塔の跡や、建物の跡が各所に見られます。あまり、人が住んでいた臭いは感じさせません。入り口には、ロバ車がたくさんいましたが、またしても、私がその日第一号の客だったようです。その後、広東省からの客とヨーロッパからの客が加わりました。

ロバ車(往復20元)で(ロバタクシーと呼ばれ、街中でも多く見られるもの)、ごつごつした道をひた走ると、かつて、玄奘が説法したと伝えられる宮城につきます。道は、轍が深くて、よくありません。途中、地面にこびりついているような蔓性の植物が見られましたが、野性西瓜で、漢方薬だそうです。当時の麹氏高昌国の王であった麹文泰(きくぶんたい)が、玄奘に説法するよう求め、玄奘は、7世紀前半に2ヶ月滞在しましたが、帰りに寄った時は、唐に滅ぼされていたということです。唐(太宗)に滅ぼされたのは、麹氏が、唐の力を見くびっって唐の怒りを買ったからだと考えられています。弱小国である高昌国は、東の漢民族系国家(隋・唐)と北の突厥(トルコ系遊牧国家)等にはさまれ、綱渡りの外交を続けていたものと思われますが、誤った選択をしたものです。

ここの屋根は失われています。昔の写真を見ると、ドーム状の屋根を持っており、イランかインド風です。近くには、仏塔も残っており、そこには、仏像が多数納められていたと思われる穴(ガン)が残されています。これだけの大きな街も、都の機能を失うと、ここまで風化してしまうのですから、アンコールワット以上に諸行無常かもしれません。遺跡では、マニ教(ゾロアスター教と同根の二元論)、ゾロアスター教(イラン、拝火教)、キリスト教(ネストリウス派=景教)、儒教、道教等、多くの仏教以外の宗教が信仰されていた記録が見つかっています。
また同じ道をロバ車で、戻りますが、御者が、いろいろコインやら、杯やらを売りつけようとします。ほとんど全部が偽物とのことですが、李さんは、これは本物かも知れないと言って、緑の石でできた杯を50元で買っていました。本物だったら、残り50元は次回払うという条件で。コインの方は、ありえない図柄だっと言ってました。

 アスターナ古墳群(阿斯塔那)



高昌故城の後は、アスターナ(”憩い”とか”眠り”の意)古墳に向かいました(市街地の南東40km)。カラ・ホージャ(カラ=黒い、ホージョ=高昌)古墳群とも呼ばれています。ここは、漢民族(唐)が支配した時代の墓が中心で、様々な貴重なものが出土しています。3世紀から8世紀に造られたとのことです。その中で、公開されているのは、3つだけです。全部では500位のお墓があるそうです。管理人も一人しかおらず(シーズンオフだったから?)、観光地として、整っているとは言えません。
駐車場に着くと、公園のようなものがあり、十二支の頭を持つ人間の像などが飾られています。この図柄は、キトラ古墳が発掘された時に初めて見ましたが、中国では、ずっと知られていたんですね。見渡す限り、ゴビと、古墳群です。面積は、10k㎡もあるそうです。

サングラスをかけた管理人がようやく出てきて、不機嫌そうに鍵を開けてくれました。
最初に入った墓(号数は忘れました)は、夫婦のミイラが安置されています。夫婦合葬墓と呼ばれています。古墳は、皆、斜めに下る幅1.5m、長さ20m位の参道があり、それを降りて行くと、墓室があります。墓室は、3-4m四方で、大きくは、ありません。左右の壁面には、小部屋があって、副葬品が納められていたと言います。多数の副葬品は副葬品のほとんどは、博物館に保管・展示されています。

215号墓には、6枚の屏風絵のように、鳥や花が描かれていますが、これらは、明らかに南国の鳥(孔雀?雉?鴨?)で、この古墳の主が、南から来た人物であることがわかるとのことです。きれいな絵です。

216号墓には、有名な、壁画(四賢人屏風壁画)が残されています。6つの画面の中央の4面には、玉人、金人、石人、木人が描かれています。玉人は、白い服を着て、清廉な人格を表しています。金人は、口を封じていますが(言わ猿といっしょ)、言を慎むべきことを表しているということです。石人は、寡黙だが、動じないことを、木人は、正直な人格を表すとのことです。
一番左の面には、”敧(き)”という、器を木に吊り下げたようなものが描かれていますが、これも、謙虚であるべきという儒教の教えを表したものなのだそうです。全て、儒教の教えを絵解きしたものと考えられています。ここが、張という大将軍のお墓だそうで、張将軍のミイラは、新疆ウィグル自治区博物館に展示されています。
この将軍は、唐から派遣された役人の増税に反対したということで、有名なのだそうです。時と場所が変わっても、考えることは、皆同じということでしょうか。216号室には、管理人が入れたがらなかったのですが、入ってみると、天井がくずれかかっていて、確かに危ない感じがしました。補強工事が必要でしょう。乾燥していますから、日本のように、カビの心配はあまりいらなそうですが。日本の高松塚や、キトラの状況を見ると、こんなに手軽に古墳の中を見れるというのも、極端に乾燥しているシルクロードならではかもしれません。

 ベゼクリク千仏洞(柏孜克里克)



そこから、今度は、火焔山の裏側にあるベゼクリク(美しく飾られた家の意)千仏洞に向かいます。火焔山を越えて行くのですが(千仏洞自体火焔山の中にあります)、これも、とんでもないところに作られている石窟群です(トルファン市街からは、北東方向40km)。作られたのは、6世紀からの700年位で、唐、五代、宋、元の時代にあたります。9世紀の西ウィグル帝国がこの地域を支配していたころが、この石窟群の最盛期といいます。彼らは、仏教を信仰しており、王国貴族のための寺院として、造られたと考えられています。

ベゼクリクに着くと、石窟に行く前に(少し降りた所にあります)、周りの山々が目に入ります。孫悟空ご一行の像が飾られていますが、まさに、そのイメージぴったりの姿、形をしています。ここにも、観光用駱駝がたくさんいて、この山の途中まで、駱駝で上ることがができます。

入り口から、谷の方に降りると、ベゼクリク千仏洞が現れます。木頭溝(ムルトゥク)河が流れる上の崖に掘られた83の石窟群ですが、ほとんど壁画は持ち去られたり、破壊されたりしています。残っているものも、目は、今はイスラム教を信じるウィグル人に見事に、つぶされてしまっています。ウィグル人は、目に魂を抜かれると信じているのだそうです。敦煌とはすごい違いです。

ということで、見れたのは、17、20、27、31、33、39の六窟でした。全部、内部は、撮影禁止です。
どれも、相当痛んではいますが、様々な人種が仲良くいっしょに暮らしていたことがわかる、貴重な壁画群です。時期的には、5、6世紀の麹氏高昌国時代から、9世紀から13世紀の回鶻高昌時代(西ウィグル帝国)に描かれたものと考えられています。
39号窟は特に有名で、仏の死を悼む(涅槃像は破壊されていて今はない)、亜細亜各国の人々の表情が、生き生きと描かれています(各国王子挙哀図)。モンゴル人、イラン人、ビルマ人、もちろん漢人など、いろんな人がいます。残念ながら、外国探検家に剥ぎ取られた跡も生々しく残っています。

15号窟は、公開されていませんが、請願図があったと伝えられ、NHK新シルクロードシリーズでは、そのCG復元が話題になりました。実際の壁画は、ロシア、ドイツ、日本、インドなどに、切り取られたものが、ばらばらに保管されています。一部は、第二次世界大戦の時に失われました。

石窟から出ると、改めて、景色の良さに見とれてしまいますが、空気の澄んだ時は、天山山脈まで、見通せるとのことです。この時期、河原のポプラの緑はまだ淡い色をしています。気温は、20度を越えて汗ばむぐらいでした。

ここから、一旦ホテルに戻って食事をとりました。
午後のスケジュールは、元々はなかったのですが、チップを払って、トルファン近辺の観光を続けることにしました。
昼食は、トマトと青菜と豆腐のスープ、パー麺(パーは手偏に”半”)、鶏肉、豆腐、青菜とシンプルなものでしたが、やたらにおいしかったです。特に、パー麺は、少し固めの麺をゆでたものに、羊のひき肉や野菜を煮込んだミートソースのようにしたものを掛けて食べるもので、麺にこしもあって、本当においしいです。日本で、食べられる所はあるのでしょうか。ビールは、緑色食品製造の”西涼ビール”。涼は、この地区を涼州といっていることにちなんだネーミングかと思われます。

 交河故城



ここから、今度は、高昌故城とは反対方向の、街の西方にある交河故城に向かいます。
交河故城は、起源前2世紀から5世紀ころまで、当地の中心でした。漢時代に西域にあった伝えられる車師前国(イラン系)の都であったと言われています。
その後も、前涼(漢族、後涼(チベット系)、北涼(匈奴系)、北魏(漢族)など、いろんな支配者達に翻弄されたようです。その後高昌国に主役の座を譲りました。高昌国が唐に滅ぼされた後、唐の西域支配の拠点である安西都護符は、交河故城に置かれました。元の襲来により、最終的に滅んだと考えられています。南北約1.6km、幅300mの河にはさまれた台地に、築かれた城塞都市ですが、高昌国同様滅ぼされてしまい、今は遺跡のみが残ります。河に挟まれた絶壁の上にあるので、遠くからだと軍艦のように見えます。

南側の入り口から入りますが、保存状態が、高昌故城よりもいいことがわかります。これは、高昌故城が日干し煉瓦を積み上げて作られているのに対し、交河故城が、台地を掘り下げて作られているからだと言われています。
ロバ車はありませんが、歩道は、比較的整備されていて、昔の町並みを歩く感じで、楽しめます。入ると官庁街と言われている区域があります。結構大きかったことがわかります。2階建てになっていて、壁の穴は、絨毯を掛けてあった跡なのだそうです。
そこから西方向に行くと、多くの赤ちゃんの墓が発見された場所があります。なぜ、このように葬られたかは不明ですが、一説では、元に攻められた時に、逃げられないと観念し、自決したたという説もあるそうです。その辺りには、職人街と考えられている一角があります。そこから先が(さらに北)、居住区と思われている地域で、かまどの跡なども残っています。

台地の東側は、もうひとつの城塞への入り口となっていて、その近辺には、井戸の跡が数個残されています。ここからは、河を見下ろすことができますが、結構高いです(30mぐらい)。ポプラの木が河原には、生えていて、ちいさな畑もあります。対岸は、普通の村で、葡萄を干す部屋が多数見えます。そこから北にさらに進むと、大寺院の跡と考えられている区域に出ます。南の入り口から、大寺院まで、北に向かってほぼまっすぐに、メインストリートがあり、左側に職人街、右側に、官庁街と庶民が住むスペース(および東城門)が広がっていたと考えられています。

大寺院跡は、南北80m、東西40mくらいの大規模なもので、中央にには、塔柱が残っており、仏像が多数納められていた穴(ガン)のみが残っています。仏像の断片が少し残っていましたが、なかなか細やかなものだったようです。僧院らしき部分には、梁を通した穴のあとや、かまどの跡なども見れます。
その先は、建物は少なくなり、仏塔が多数立っている場所があるとのことですが、そこで、Uターンをしました。その奥まで、いく人は、少ないそうです。まさに、天然の要塞のような城だったのですが、ここも滅んでしまいました。

 カレーズ楽園



大満足の交河故城散策の次は、カレーズ楽園に向かいます。途中、山道を抜けますが、ちょうど、季節的に、葡萄畑の整備が始まったところでした。葡萄棚は、太陽が万遍無く当たるるように、南に向かって斜めに作られており、根元には、水を流す溝が作られています。ちょうど、近くに水たっぷり湛えたダム湖が見えました。

カレーズ楽園は、トルファンの街に戻る途中にある観光用のカレーズです。本当のカレーズもたくさん見れますが、なかなか穴を降りて見るわけにもいかないので、見やすいように、造ったものを展示しているというわけです。早くも、店じまいが近いようで、客はほとんどいません。

まず、展示室があって、カレーズの仕組みを表した電飾の立体模型や、カレーズを掘る時の道具などが展示されています(牛に、土をつんだかごを、井戸の底から、引っ張り上げさせているようです)。要するに、トルファンは、天山山脈からの雪解け水の恩恵でできたオアシスなのですが、通常の用水路で、水を引くと、すぐ干上がってしまうので、地下水を、地中深く掘った穴を延々と通し、街に引いているのです。この技術は、ペルシャの方から伝えられたものとのことでした。
トルファンには、1,200本ほどのカレーズがあり、その総延長は、5,000kmにも上るそうです。中国の3大土木工事として、万里の長城、運河(北京-杭州)、カレーズを挙げる人もあるとのことでした。

ガイド見習い中の王さんが、練習といって説明してくれましたが、半分くらいしか理解できませんでした。何でも李さんのお世話になった旅行会社の社長の息子で、ガイドの修行のために連れて行ってくれと頼まれたらしいです。ウルムチの大学で日本語を専攻としているそうです。先生は、サラリーマンを卒業した日本人だと言っていました。
李さんは、大ベテランで、日本人の考え方を熟知しており、相当できる人と見受けました。今回、都合4人以上のガイドにお世話になっていますが、ベストのガイドでしょう。日本人からもらったという高度計つきのカシオの時計をしていて、移動中など、高度を教えてくれました。こんな山の中なのに、ほとんど海抜ゼロ~数mです(最低は、マイナス150mとのことです)。

それから、葡萄畑の脇を通って、カレーズ見学に穴にもぐります。今は、そんなに暑くないから感じないけれど、夏は、ここにもぐるとさぞほっとするのではないかと思います。きれいに整備されすぎて、はるか昔ペルシャから伝わったという味わいに欠けるのはちょっと残念でしたが、せっかくだから見ておかないとね。
このカレーズが、1,200本もあるというから驚きです。

 蘇公塔



この日最後は、蘇公塔(そこうとう)という所に行きました。
これは、1779年にトルファン郡の王であるスレーマンがその父であるオーミン・ホージャのために建てたものとのことで、完全にイスラムの世界です。オーミン・ホージャは、ウィグル人で、清の乾隆帝時代の、トルファンの統治者です。高さ44mで、幾何学模様がぎっしり掘られた円柱形の塔ですが、今は登ることはできません。トルファンで最大の古塔です。

隣がモスクになっていますが、モスクの中には、木もふんだんに使われていて、落ち着いた雰囲気で、昔の石碑なども展示されていました。お祈りをしている人は、誰もいませんでした。
塔の脇には、お墓が並んでいましたが、丸いのが女性の墓だそうです。皆、メッカの方向を向いているのでしょうか。シンガポールでは、イスラムのお墓は、小さなものでしたが、ここのは結構立派です。カシュガルの寺院のお墓の写真も、ここのに似ていました。

ということで、大忙しのトルファン観光も終了。例によって、まだ陽が高いので、ちょっと街をぶらぶらして、ホテルで簡単に夕食を済まし、暗くなってから、李さんの機転で、街中の地元の人が行く店に連れていってもらいました。ところで、ホテルの夕食では、世にも珍しい苦瓜ビールを飲みましたが、ビールは元々苦いので、大きな違和感はありませんでした。

連れて行ってもらった店は、ウィグル料理(清真料理というらしい)の屋台風のところで、シシカバブーを、新疆ビールを飲みましたが、すばらしい味です。やはり、食事は、本当は、地元の人が行くところじゃないとね。シシカバブー4本(大きいです)とビール3本で、17元(250円くらい)でした。
周りは、ほとんど、イスラム教徒の人々(ウィグル人)でしたので、お酒を飲んでいる人は少なかったです。でも、注文すれば出てくるので、漢人も多く、また、ブルネイみたいにイスラム教が国教というわけでもないので、その辺は相当寛容なのでしょう。
午後は、どこも私一人しかいませんでした。交河故城を一人で、歩けるというのは、この時期ならではでしょう。
またまた充実の一日も暮れていきました。

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